金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「山笑う」季節に

4月15日

「山笑(やまわら)う」は、私の最も好きな春の季語。里の桜が散り始める頃、里山の草木が一斉に芽吹き始める頃の淡く明るい感じをいいます。金沢の日の出も既に5時半。少し早起きして、卯辰山の遊歩道へ分け入ると、山菜を手にした方と出会いました。
「今年は2週間ほど早い」のだそうです。笑う山では人も自然に笑顔です。

筆者撮影、「山笑う」卯辰山見晴らし台から

山笑うは、11世紀後期に活躍した中国宋代の代表的な山水画家、郭煕(かくき)の画論『臥遊録』(がゆうろく)の「春山(しゅんさん)淡冶(たんや)にして笑うが如く」からきているそうです。ちなみに夏は「滴(したた)る」、秋は「粧(よそお)う」、冬は「眠る」とのこと。四季の自然に向き合う繊細な感性と豊かな表現力です。
 
ところで、哲学者ニーチェ(1844-1900)の代表作、『このようにツァラトゥストラは語った』の中で、主人公ツァラトゥストラは30歳の時に山に入り、孤独と己の精神と向き合って10年間楽しみ、倦むことがなかったと述べています。
 
私の知人も、定年前に職を捨て、とある山麓の山荘で一人暮らしに入りました。まるでツァラトゥストラです。フリーランサーとはいえ、年金ほかの限られた収入で晴耕雨読。つい最近、それこそ満面の笑みを浮かべる山々を背景に、自転車を駆り、テレビも持たず、孤独と自身の精神、そしてワインと向き合って、日々の思索と生活を楽しんでいる様子を知らせてくれました。
 
もちろんこのツァラトゥストラ氏、世捨て人になったのではなく、ネットを介して世界や日本の情勢と向き合い、囚われを捨てて自由な立場から鋭い警句を発しています。先日は、軍の銃口にさらされるミャンマーの人々はもちろんですが、引き金に指をかける軍人の側の心情にも思いを及ぼして、途方に暮れながら、そのやりきれなさに悲憤慷慨。最近は、新型コロナ感染拡大の中で行われているスポンサー付きの国内聖火リレーを「欺瞞に満ちたオリンピズムの葬列にしか思えないパレード」と断じています。笑う山々から響いてくるこちらの辛辣な嗤(わら)いに、内心どきりとさせられるのは私だけでしょうか。