金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「ソーシャルディスタンス2m」と「両手間隔1.8m」

5月25日

5月25日に新型コロナ感染拡大を受けての「緊急事態宣言」が解除されました。「三密を避けよう」、「ソーシャルディスタンス」(2mの距離を空ける)、「手洗の徹底・マスク着用」などを骨子とする、「新しい日常」の構築・定着が求められています。
 
2mの距離をメジャーで測って、「ソーシャルディスタンス」の目印を表示する作業がいたるところで見受けられます。私は「ソーシャルディスタンス」よりは「身体的距離」といったほうがわかりやすいと思いますし、機械的にメジャーで測ることにもある種の違和感を感じてしまいます。
 
日本の教育史上、「身体的距離」とその学習空間が具体的に規定されたのは「体操」科の登場がきっかけでした。「体操」は、明治10年代後半に全国の学校に普及しましたが、実はこの当時、多くの学校には運動場がありませんでした。この当時の奈良県や岩手県の「小学校設置開申書」を調査して分かったことは、多くの学校は100坪程度の敷地に50坪前後の校舎を配置したものでした。つまり全く民家と同程度であり、学校には「庭」ないし、せいぜい「遊歩場」はあっても、「運動場」の必要性はほとんど念頭になかったのです。私たちが運動場を「校庭」と呼ぶのもその名残かもしれません。明治11年に設立された文部省直轄「体操伝習所」(現在の筑波大学体育専門学群)は、アメリカ人医師リーランド(1850-1924)を招聘して、日本のそのような実状に即して、「体操科」教材として「軽体操」を選定したのですが、これは移動運動を伴わず、その場で体を動かす、いわばラジオ体操のようなものでした。
 
その場で体を動かすといっても、ぶつかってはいけません。そのため両手を開いて左右前後の間隔をとると、1.8m四方の面積(1坪)が一人分の運動空間になります。私たちが小学生の時からやっている「体操隊形に開け」の号令がこれです。 ちなみに、一人1坪、1クラス約50人の生徒が一度に体操ができるようにするために、学校運動場の広さが最低100坪と定められたのは、明治32年の「学校設備準則」のことでした。学校の敷地を増やすというのは行財政的にも大変なことだったのですね。この100坪というのは18m×18m、つまりバレーボールコートを2面並べただけの大きさです。陸上競技トラックなど広い運動場や体育館を備えた現在の学校景観とはずいぶん異なることがわかります。
 
話は飛びますが、江戸時代、日本地図を作製した伊能忠敬(1745-1818)は自分の体を物差しにして、1間(1.8m)を正確に2歩で歩測したそうです。医学・衛生学的にはわかりませんが、「ソーシャルディスタンス2m」というよりは「両手間隔の身体的距離」(1.8m)のほうが我々の身体感覚になじみやすいのではないでしょうか。また遠隔授業に対比させ、体で測る距離ということを考えてみる良い機会になるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。