金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「二つのアレイ」

5月25日

「筋トレ」に関心をお持ちの方なら、一度はどこかで手にしたことがあるかもしれません、「アレイ」。最近は、ほとんど金属製の「鉄アレイ」でしょうか。
 
ところで、この「アレイ」は何語なのでしょう。答えは驚くなかれ、日本語です。英語では dumb bell(ダムベル)、dumbは「口のきけない人」(唖者)、bellは「鈴」だったので、「唖鈴(アレイ)」。アレイってダムベルの直訳日本語だったのですね。あれあれ!
明治になって、西洋の学校教育に範をとった文部省は、「学制」によって学校制度を整え、教科に「体操」を設けました。しかし、当時の日本には体操科のノウハウはなし。指導者も、テキストも、運動場すらない。ないない尽くしです。
 
そこで明治11年、東京神田に設けられたのが国立・文部省直轄「体操伝習所」でした。現在の筑波大学体育専門学群の前身です。教師としてアメリカ人医師リーランド(1850-1924)が招聘され、およそ3年間、日本国内事情や実態に即した体操教材の調査選定と教員養成にあたりました。
 
その結果、採用されたのは「軽体操」と呼ばれた体操でした。その場に立って、移動することなく、徒手または多少の負荷を加えるために手具を手にして体を動かす、ごく単純な体操でした。この時に手にする用具の一つが唖鈴でした。そのほかに棍棒(こんぼう)、球竿(きゅうかん)、豆嚢(とうのう)、木環(もくかん)などがあり、それらの図解入り製作法が、明治15年体操伝習所から刊行された『新撰体操書』に示されています。
 
さて、明治17年「石川県学事報告」には、「江沼郡山中村、森山定吉という人物が体操器具を製造販売、廉価でかつ品質良好なため、体操科の普及に役立っている」と報告され、同年の文部省年報にも掲載されています。山中漆器製造が近代体育の普及に用具の点から一役買ったわけです。
 
どうして体操用具と山中漆器が結びついたのかというと、豆嚢(文字通り小豆の入った袋)を除けば、すべて木工製品だったからです。石川県の中でも、輪島漆器などの高級品は、大木を4つ割りして中心部を捨て、狂いが出ないように加工するのに対し、山中漆器は日常使いの椀や木皿などの丸物漆器が特徴で、多少の収縮や脆弱性はあっても、安価な丸木の小樹をそのまま用い、またこの時にろくろを使う工程が発達していたそうです。安価な端材を利用した丸みを帯びた唖鈴製作など、体操用具への技術転用は案外容易だったのでしょう。地場産業が近代体育の形成に寄与した好個の例です。
 

筆者撮影および所蔵、アレイ

写真は筆者が所蔵する唖鈴です。県内某小学校で、昔使用された実物と伝えられています。石川県内で使用された、おそらく明治期の軽体操用具ですから、ひょっとして森山定吉氏製作の一つである可能性があります。
 
また、ひところ石川県立歴史博物館の近代・教育に関する常設展示品の一つに、体操用具として「唖鈴」が展示されていました(現在の展示は未確認)。これは「鉄唖鈴」でした。だとすると、金沢医学館(金沢大学医学類の前身)が、明治8年に日本で最初に作った体操用具である可能性があります。
 
医学史に詳しい板垣英治氏の一連の研究で明らかなように、医師ホルトルマン先生の講義ノートである、藤本純吉「医事小言」(明治8年)が玉川図書館に残されており、その中に「ハルテルス」を用いた「体操運動」が詳しく記されています。記録に残された限りでは、受講生が記した日本最初の詳細な学校体操指導記録です。
 
さらに当時学生であった田中義雄氏が、のちに「ハルテルス」は「現今の唖鈴」であり、ホルトルマン先生は「大樋町鍋屋(鍋釜鋳造所)」でこれを作らせ、校庭で「一、二、テレー、(エン、テベエ、)三」等のオランダ語と日本語の混合の号令をかけて学生たちに指導してくださったと回顧しているのです(『金沢大学医学部百年史』)。
 
金沢市大樋町の鍋屋で作らせたというのですから、これは明らかに金属製「鉄唖鈴」でしょうし、県内ではほかに「鉄唖鈴」が製作された記録は見当たりません。
 
「鉄の唖鈴」と「木の唖鈴」。この二つはひょっとしたら、明治期石川県のみならず、わが国近代体育史上の知られざる一面を語る、とてつもない貴重な記念品なのかもしれません。
 
30年前、私はこの二つのアレイの製作過程をめぐって、現地調査も行いましたが、残念ながら詳細は追いきれませんでした。残念な限り。今でも夢のままです。(拙著『明治期比較体育史研究』参照)