金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「二階堂トクヨ先生(その2)『女子体育は女子の手で』」

6月15日

トクヨ先生、1906(明治39)年夏、26歳の時、3週間の文部省の体操講習会に出かけたり、金沢のカナダ人宣教師のフランシス・ケイト・モルガン夫人が体操専門学校の卒業であることを知り、自宅で個人レッスンを受けるなど、体操への傾倒はひとかたならぬものでした。
 
とっておきの話があります。トクヨ先生、体操練習時に襟元を留めるブローチをモルガン夫人からお借りすることになりました。モルガン夫人、手持ちの小箱を開け、「どれでも好きなものを…」。 トクヨ先生、遠慮しながら、一番古びて黒ずんだものを選び、使用後にはピカピカに磨いてお返ししたところ、モルガン先生、あっと驚いて「何ということを!銀のブローチを選ぶとはさすがに見る目があると感心していたのに…」。
 
トクヨ先生自身が「私の失敗」談として書いたこの短い文章、私は第一高女の同窓会が運営していた「済美会館」が収蔵しておられた校友会誌か何かで目にしたような記憶があります。トクヨ先生の研究者である穴水恒雄教授(当時日本女子体育大)にも紹介、私自身も再訪し、ともに探してみましたが見当たりませんでした。あるいは県立図書館など別なところだった可能性もあります。
 
30年前、いつでも再確認できると、写真やコピーもとらずじまいだった自分の調査手法の杜撰さをどれほど悔やんだことでしょう。銀のさびが古くなるほど価値を持つなど、トクヨ先生と同様、私も全く知らなかったし、いかにもトクヨ先生らしいエピソードだと記憶に残ったのです。資料とともに紹介できればトクヨ先生の人物史研究に少しは貢献できたのですが…。いまだに幻の秘話でしかありません。

筆者撮影、石川県立金沢第一高等女学校同窓会碑 金沢市穴水町児童公園

間もなく、トクヨ先生、石川高女の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つに至り、石川県の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになりました。県知事に掛け合って、石川高女の運動会にプロの楽隊を入れ、大変な評判を呼んだといわれます。
 
1907(明治40)年、27歳になったトクヨ先生、体操教師として全国に名を知られるようになり、同年、高知県師範学校教諭として転勤を命ぜられます。1909(明治42)年、29歳の時、二階堂姓に戻り、1911(明治44)年、東京女高師助教授に抜擢されます。31歳でした。
 
1912年(大正1)、トクヨ先生、体操研究のため、文部省からイギリス留学を命じられ、英国内のいくつかの体操専門学校で修業、1915(大正4)年帰国。同年、35歳で東京女高師教授となります。
 
このイギリス留学で、トクヨ先生は自身の体操がスウェーデン体操のごく一部にすぎず、教育的でかつ厳格に過ぎること、女子の体操科にダンスがとりわけ重要な価値を持つこと、陸上競技や水泳、クリケット、ホッケーなどのスポーツや運動教材が女子に何の問題もないこと、英国では女性が体操教師として活躍していることなど新しい世界の知見と実態に感銘を受けて帰国しました。
 
当時の日本では、女子体育は特別な配慮が必要で、男子に比べて程度の低いもの、したがって年配の男性教師が無理をしない程度に教えるのが一般的とされていました。トクヨ先生、そのような過剰な配慮は不要どころか間違いであり、「女子体育は女子の手で」と、自らの理想とする体育の実現を目指して、1922(大正11)年、私財を投げ打ち、「二階堂体操塾」を設立しました。41歳でした。
 
この「二階堂体操塾」(現在の日本女子体育大学)からは、後に日本初の女性オリンピック選手・人見絹枝(1907-1931)選手など8名の女性オリンピック選手が生まれます。石川県初の女性オリンピック選手・羽咋郡出身走り高跳の広橋(長井)百合子(1916-1977)選手もその一人です。
 
日本女子体育大学が現在でも新体操やモダンダンスなど舞踊に強いのも、トクヨ先生以来の伝統なのでしょう。そういえば能登を舞台にしたNHK連続テレビ小説(朝ドラ)「まれ」で、華麗な踊りを見せてくれた土屋太鳳さんもその一員ですね。
誰も時代を飛び越えて生きることはできません。良妻賢母主義の時代の中で懸命に生き、貧しさの中で自らの意思と熱意で教育の道を切り開き、当時顧みられることのなかった女子体育という世界に直面して、無我夢中で取り組むうちに、その新たな可能性に着目、やがて国内はもとよりイギリス留学の中で、体操はもちろん、ダンスやスポーツの新知識を得て、日本女子体育の母となったトクヨ先生の生き方は、Sei-Tan女子学生の皆さんにはどう映るのでしょう。
 
トクヨ先生と第一高女の校長先生や同窓会(済美会)とはその後も交流がありました。1941(昭和16)年、61歳、死を間近にして、次のように第一高女同窓会へ書き送った手紙が残されています。最後にそれを紹介します。
 
「わたくしにこうした時が今参りました。鷲尾さま、済美会を代表するあなたにさよならをもうします。トクヨは今全身過労、貧血で重体に陥り、見込みがありません。石川県済美会の御恩を永久に忘れません。済美会の皆さま、私を体操教師にしてくださったのを感謝します。」