金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「科ということ」

6月25日

学校教育において「科」は小学生の頃からなじんできた言葉です。教科、科目、学科、等…。「科」は漢和辞典をひくと、いくつかの意味がありますが、元来は「分けられたもの」という意味です。仏教では真理を得ることを「悟る」といい、段階を経ることなく、まるで雷に打たれるように突然に生じる、最も重要な修行の方法と位置付けていますが、公教育ではそうはいきません。

誤解を恐れずに言えば。私たちは通常、全体としての真理をいきなり把握する能力を持たないため、やむなくいくつかに分けてしかも段階的に接近していかざるを得ないのでしょう。 したがって私たちは真理の探究という究極の目的を、さまざまに分けられた学問、つまり「科学」として進めます。近代のたどる方向性は専門分化で、その利点も大きいのですが、でもどこかで「全体」ないし「総合」を振り返り、究極の目的を見失ってはなりません。

筆者撮影、雨上がりの浅野川沿いの紫陽花(三密注意!)

近代体育の父と呼ばれるドイツ人グーツムーツ(1759-1839)は、ゲーテと同時代の教育者。身体を顧みない当時の時代思潮の中で、グーツムーツはたくましいゲルマン人を育てるために、教育の中に身体教育をきちんと位置付ける必要性を説き、また自ら指導実践しました。イギリスが近代スポーツ教育の母国であるのに比し、ドイツが近代体育の母国と言われるゆえんです。

グーツムーツは、歩・走・跳等の素朴な運動を、森の樹木、坂道、小川など身近にある自然環境を積極的に利用する形で組込みました。古代ギリシャの体操に関する知識と、フランス人ルソーの自然主義教育思想の影響があったのですね。

主著『青少年の体育』(1793)には、それらの理論と教育的価値、教材体系がまとめられています。この第三部を読んでみますと、運動能力や体力の向上、体格や姿勢を良くするだけではなく、大きな声を出す発声運動や朗読、闇夜で目が見える視覚の訓練、聴覚の訓練、目測で距離を測る訓練、内臓を鋭敏にする断食訓練、断眠訓練など、生物学的な人間の身体構造や内臓機能、感覚まで含んでいます。人間全体を分科せず、トータルに鍛えようとしたことが分かります。

皆さん、現代の分け過ぎない教育の現場を見たいと思いますか。ならば幼稚園に行きましょう。「幼稚園教育要領」には教科がありません。あるのは健康・人間関係・環境・言葉・表現という「領域」5つです。簡単にいえば、園児たちは、後の「教科」につながる「領域」を総合し、「遊び」という活動に没頭していることになります。そこには不思議な命の喜びが溢れ、感動すること請け合いです。

短大生や大学生たちが苦労している「卒論」作成という課題は、小学校以来取り組んできた分けられた学問を、最後に再び総合して、全体とか真理を考えるという試みなのかもしれません。
参考文献
藤堂明保・加納喜光(編)『学研 新漢和大辞典』(普及版)学研教育出版、2013(初版1978)
グーツムーツ(成田十次郎訳)『青少年の体育』世界教育学選集91、明治図書、1979