金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「オリビア・デ・ハビランドさん」

8月5日

2020年7月26日、映画『風と共に去りぬ』のメラニー役で知られ、アカデミー賞を2度受賞した女優のオリビア・デ・ハビランドさんがパリの自宅で亡くなりました。104歳だったそうです。
 
映画や芸能界にまるでうとい私がこの女優を知っているのは、彼女の父親のゆえです。ウォルター・デ・ハビランド(1872-1968)。英国生まれ、ケンブリッジ大学卒業後、来日、1898(明治31)年、26歳の時に金沢の第四高等学校(略称:四高、金沢大学の前身)の英語教師として赴任、5年余りの滞在中にフットボール部を創設し「雨が降ろうと雪が降ろうと関係ない、さあやるぞ!」とサッカーを教えたことが当時の記録に残っています。おまけに、1歳年下のドイツ語教師でドイツの体育教師の資格も持っていた同僚のヴォールファルトと互いにゴールキーパーを競った記録、二人が並んだ集合写真も残されているのです。
 
デ・ハビランド先生はその後東京高等師範学校に転じてからもサッカーを指導し、卒業生が全国に紹介、対校戦なども始まって、その影響力が大きかったものですから、日本サッカー史では、学生サッカーのルーツが東京から始まったように書かれていますが、実は金沢での”It is no matter, hailing, snowing, raining. Come and play!”という言葉が日本学生サッカー史のキックオフになっているのだというささやかな論文を発表したことがあります(拙稿「日本学生サッカー前史:四高外国人教師デハビランドとヴォールファルトのフットボール」体育学研究58-1、2013)。
 
デ・ハビランドは1914年リリアンと結婚、翌1916年長女オリビアが、次いで1917年次女ボーボアールが東京で生まれました。ただ1919年離婚、妻リリアンは娘2人とともにアメリカに渡り、その後娘2人はハリウッド女優の道を歩みます。デ・ハビランドは東京・横浜で暮らし、日本人と再婚しましたが、太平洋戦争が始まる前にアメリカに移住、1968年カナダバンクーバーで没しています。96歳でした。
 
ところでオリビアさんは金沢を訪れたことがあったのでしょうか。確かなことはわかりません。日英同盟が結ばれていた1902~1923年、つまり日露戦争期から第一次世界大戦終了までは来日も可能であったと思われますが、日英同盟破棄後は次第に困難になったのではないでしょうか。また、父とは疎遠であったらしいので、その意味からも金沢来訪の機会はなかったのではないかと思われます。
 
また第一次世界大戦に際し、日英同盟によって日本が参戦、ドイツに宣戦布告したことに伴い、先に述べたドイツ人ヴォールファルト先生はドイツに帰国せざるを得なくなりました。ですがその後ドイツにおいても金沢の教え子たちとの交流は続けられていたようです。
 
国際政治情勢はかくも人々を翻弄するのですが、その中においても「誠実に生きる」人々の姿を見ることはできるのですね。