金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「クーベルタンのオリンピズム(その2)『無知』」

8月5日

前回、クーベルタン先生は、諸科学の発達によって、細分化・専門化された膨大な知識の山が、逆に人間を自分の殻に閉じ込め、そこから生まれる人間相互の無知・無理解が嵩じて戦争を引き起こしたと考えたと述べました。確かに現代の我々は、おそらく史上まれなほどたくさんの知識を身につけてはいるのでしょうが、それらを俯瞰する力が身についておりません。そういう力が必要だとも考えていません。クーベルタン先生は、そのことを「無知」と呼んだのでした。つまり、「無知」とは単なる知識不足のことではなく、自分以外に自分の外に世界があることを認めない、認めようとしない精神状態のことを意味します。スポーツの世界も例外ではありません。それどころか、一段とその傾向が強いかもしれません。
 
クーベルタン先生がオリンピックを構想する以前に学んだのは、イギリスのパブリック・スクールのスポーツ教育でした。そこで教えられていたスポーツマンシップは、スポーツをすることで勝者になることよりも、ズルをしない、卑怯なことはしない、勝ち負けという結果ではなく、その過程においてどれだけ全力を尽くしたか、などが重要視され、人格形成やジェントルマンの育成のための教育手段として位置づけられたスポーツでした。つまり、勝敗やゲームの結果そのものには重きが置かれなかったのです。オリンピズムにもそれは受け継がれています。
 
勝って泣き、負けて悔し泣きする姿も過度に及べば、勝敗にこだわりすぎる態度のひとつなのです。イギリスのことわざに、駿馬(しゅんめ)か駄馬(だば)であるかがはっきり表れるのは勝負ごとに負けた時の態度だというのがあるそうです。「駿馬は負けても顎を落とさない」「悪びれた様子を見せない」。
 

筆者撮影、大いなる知の飛翔の帰投

テニスの大坂なおみ選手。「皆さんの期待に答えられずにごめんなさい」と謝らなくてもいいのです。決して十分な体調ではなかったはずなのに、わざわざ東京まで駆け付けて、聖火ランナーまでやってくださった。「ありがとうございます」というのは私たちなのです。
女子柔道57キロ級銅メダルの芳田司選手。勝利というアスロン(賞)を目指して努力する競技者(アスリート)はあなただけではありません。これまで他のアスリートたちの目標となって、よく立ちはだかり、柔道という世界をよりすばらしく進化させ、その上に勝ち得た銅メダルなのです。どうか胸を張り、笑顔を取り戻してください。紛れもなくあなたは美しき駿馬なのです。
 
古代ギリシャのオリンピックが多く太陽神の神々に捧げられ、神事性を持っていたことに比し、近代オリンピックは「神なき時代」のオリンピックです。人間の肉体のすばらしさ、努力の尊さと偉大さ、一方でそれをあざ笑い、翻弄するかのような「運命の神様」の仕業と存在の崇高さにも気づかされる思いがします。私たちの知が自己中心で限局的であり、無知であることなのかもしれません。
 
クーベルタン先生、戦いに明け暮れ、スポーツで世界を結ぶことなど誰も考えつかなかった19世紀の時代に、「スポーツ」と「知の飛翔」という新しい手段を用いて、世界の見方を変え、世界に平和をもたらそうとした稀有な教育者だったのでした。今、持続可能なオリンピックの在り方を模索する時、私たちはこうしたクーベルタンのオリンピック哲学「オリンピズム」を、単なるオリンピック・プロパガンダではなく、学問の対象として再検討する必要があるように思います。
 
最後にオリンピック憲章を確認しておきましょう。
「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない(1-6-1)」
「IOCは国ごとの世界ランキングを作成してはならない(5-57)」
 
 
※次回の更新は夏休み明けの9月になります。