金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「学問のすゝめ」

9月15日

大学教員のだいご味の一つにゼミの勉強会があります。これまで約40年間、専門書や論文講読以外に、年に1~2冊、様々なジャンルの本に取り組んできました。『論文の書き方』など、学生にすぐ役立ちそうな文献もリストに加えてあったのですが、それらは「自分で読めるので」と案外希望が少なく、「一人では手ごわいが、教員の解説ないし仲間と議論しながらだったら何とか読める」少し硬派の本が選ばれることが多かったように思います。大学院生たちには『哲学入門以前』や『監獄の誕生』、学部生たちは『学問のすゝめ』が好評だったように思います。

筆者撮影(浅野川) しらさぎ君、君は自由ですか、それとも我儘放蕩?

2015年に金沢星稜大学に着任しても、数名のゼミ生たちと岩波文庫の当用漢字・現代仮名版『学問のすゝめ』を読んできました。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」という有名な冒頭の一文とともに、近代日本の最大の啓蒙家福沢諭吉(1835-1901)の本書を知らない人はいないと思いますが、実際に全文を読むのは初めてという学生ばかり。毎週ゆっくりと少しずつ大きな声で順に音読します。漢文調のリズムを持つ日本語ですから、声を出して読むことは文を味わい、また理解を助ける意味でもとても有益です。

難しい漢字やことばは曖昧にせず、その場で辞書を確認。これに私の時代背景や現代社会に敷衍した脱線解説が加わると、1回にたった1~2ページしか進まないことも。一応15回分のシラバスはあるのですが、学生たちの反応次第で、話は無限に広がりますので、実態はブラックバス。学生たちもそのほうが面白いといってシラバス変更を許容してくれましたので、全17編を読み終えるには通常授業のほかに、1泊2日の合宿ゼミを要しました(これもまた楽しからずや)。
「一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば、我儘放蕩(わがままほうとう)に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり」

「学問のすゝめ 初編」には、いきなり上の文が登場します。そこでまず「分限」「我儘放蕩」の意味や使い方を調べ、「妨げ」は「防げ」ではないことを確認して、文の理解と解釈を学生たちに自分の言葉で語ってもらいます。一通り聞き終えたところで、「では自由と我儘は何が違うのですか?」と問いかけます。しかし、これだけだとなかなか議論が進みません。そこで「例えば、あなたはあるサークルの責任者です。メンバーの一人が『今日バイトで練習出られません』と申し出てきました。あなたは責任者として、それは認められないと答えます。そしたら、『そんなのは私の自由だ』と反論され、あなたは言葉に詰まってしまいました。この状況をどう考えますか」と現代風に場面設定すると、学生たちの議論が具体的かつ実際的に活性化し始めます。実は、「自由と我儘の境は他人の妨げとなるかならないかの間にある」という福沢の答えが次の段落に用意されてあって、やがてこの議論がひとまず収束点に達することになるのですが、そこまでの議論が白熱して面白いのです。「ハーバード白熱教室」(NHK、2010年)にちなんで、勝手に「Seiryo白熱教室」と名付けておりました。
ある優良企業に就職したサッカー部の卒業生。最終役員面接で「君はサッカーのほかにどんな勉強をしましたか」とやや意地悪な質問を受けたそうです。実は大学時代まともな本を通読したことはなかったのこと(そんなことあるのかな?ジョークでしょう!)。大変困ったそうですが、ゼミを思い出し、「『学問のすゝめ』を読みました。その中で、自由と我儘はこういう点で違いがあるのだと理解しました」と、滔々と自分の言葉で語ったところ、「ホー。いい勉強をしているね」と感心されたとのことです。「諭吉先生のおかげだね」と、卒業のお祝いに1冊プレゼントいたしました。

調子に乗って、第6編「国法の貴きを論ず」で、「赤穂義士」の是非をディベイトで議論しようとしたら、「赤穂義士って何ですか?」。急遽、映画「忠臣蔵」も見たのですが、現代場面の設定がうまくいかず、盛り上がりも今一つ。これは失敗例でした。授業って難しいですね。

Sei-Tanの皆さんには、2022年度後期から「生きるための哲学・倫理学」を開講し、『学問のすゝめ』も一部取り扱う予定です。
参考文献
川原栄峰『哲学入門以前』南窓社、1967
M・フーコー(田村俶訳)『監獄の誕生-監視と処罰-』新潮社、1977
福沢諭吉『学問のすゝめ』岩波文庫、1942(2008第90刷)