金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「二階堂トクヨ先生(その1)『浅野川大橋の号令練習』」

6月5日

Sei-Tanの皆さん、新型コロナウイルスの感染症拡大防止のための活動制限指針レベル引き上げに伴って、5月11日~6月14日まで遠隔授業に切り替えられています。1年生の皆さんはdotCampusを使いこなせていますか。2年生は就職活動真っ盛りの時期で、不安はありませんか。困ったり、悩んだ時にはいつでも相談してください。一緒に乗り越えていきましょう。
 
就職活動というのは自分の将来を見据えるということ。「2年で4年を超える。明日輝く女性になる!」というSei-Tanスローガンの先にあるのは、「誠実にして社会に役立つ人間の育成」という「建学の精神」ですね。
今回取り上げるのは、皆さんと同じように「誠実にして社会に役立つ人間の育成」を目指して、懸命に生き抜いた一人の女性です。二階堂トクヨ(1880-1941、61歳没)。日本女子体育の母と呼ばれ、日本女子体育大学の創始者として著名な女性です。何しろ、1922(大正11)年、41歳の時に「女子の体育は女子の手で」と、私財を投げうち、単独で「二階堂体操塾」を作り上げてしまったのですから、驚きます。すごい女性ですね。尊敬の念を込めて、以下「トクヨ先生」と呼ばせていただきます。
 
良妻賢母主義の戦前期の時代を、一人の人間として、女性として、信念をもって生き抜いたその人生の一端を語り、皆さんにも参考にしてほしいのです。そして、知る人ぞ知る、実はこのトクヨ先生、金沢ととてもゆかりが深い方なのです。
 
トクヨ先生、宮城県の生まれですが、両親は会津藩士の家系であったそうです。ご存じの通り、会津藩は幕末戊辰戦争で新政府軍に徹底抗戦し、降伏。23万石の領地を没収された藩士とその一家は、流刑に等しい過酷・悲惨な生活を余儀なくされます。二階堂家が斗南(となみ)藩が置かれた下北半島などに比べれば、東北ではまだ南に位置する宮城県三本木(現大崎市)に移った経緯は定かではありません。父の保治は教師の職を得、教育熱心な家庭であったようですが、経済的な困苦は常に一家につきまとったようです。
 
1895(明治28)年、トクヨ先生は、三本木小高等科を卒業し、15歳で坂本分教場の准教員になります。上級学校へ行きたいと思ったようですが、当時の宮城県師範学校は女子部を廃止しており、進学できません。しかしトクヨ先生、諦めず、福島民報の社長・小笠原貞信に手紙を送って、養女にしてもらい、福島県民小笠原トクヨと改姓して、福島県師範学校への入学資格を得ることを躊躇しませんでした。こうして1896(明治29)年4月に福島師範へ入学、1899(明治32)年3月卒業します。
 
トクヨ先生、この時19歳。安達太良山の麓、安達郡油井村の油井尋常高等小学校(現・二本松市立油井小学校)に赴任し、訓導として尋常科2年生の担任になります。そのクラスには長沼ミツという児童がおり、その姉で高等科3年生の智恵子とも親しくなったといいます。智恵子とは、後に高村光太郎の妻になる高村智恵子のことであり、智恵子はトクヨ先生に懐いたといわれます。先生と二人で見上げた安達太良山の向こうの青い空の記憶が智恵子に刻まれたのでしょうか。(参照:お知らせ「それぞれの青空」2021.2.25
 

筆者撮影、浅野川大橋と河原

1900年(明治33年)4月、20歳になったトクヨ先生、油井小を休職し、福島県から今度は東京にある女子高等師範学校(女高師、現・お茶の水女子大学)文科に入学します。4年後の1904(明治37)年に卒業し、石川県立高等女学校(のちに第一高女)に小笠原トクヨとして赴任したのでした。24歳のことです。日露戦争が始まった年で、5月には金沢の第九師団にも動員令が下り、市内は異様な緊張と沈痛な思いが入り混じって、軍都の色合いを一段と色濃くしていた頃と思われます。
 
石川県立高等女学校の校長は土師雙他郎(はじそうたろう)という人でした。嘉永6(1854)年、金沢母衣(ほろ)町生まれ、明治9年から石川県師範学校に勤めますが、明治15年に約10か月間、東京師範学校小学師範学科取調員と体操伝習所伝習員を兼ねて派遣された、体操の専門家でもありました。この土師先生、トクヨ先生に体操の担当を命じました。
 
トクヨ先生、「いやしくも文科の卒業生を捕まえて、ものもあろうに体操の教師なんかに成り下がらせるとはあんまりだ」と落胆。病弱だったこともあり、「何、来年は死ぬんじゃないか。たかが一年の辛抱だ。かまいはせぬ」と自暴自棄になって週13時間の体操を教え始めたといいます。最初は疲労困憊、翌日の予習もままなりません。ところが、不思議なことに数か月するうちに、トクヨ先生、自身の快活と健康を取り戻し、持病の神経衰弱からも救われるようになっていました。トクヨ先生、それが体操の効用であることを悟って、体操にすべてをささげる気持ちになったのだといいます(『二階堂トクヨ伝』)。後年の回想ですから、少し表現の誇張もあるのでしょうが、当時の体操科を見る社会的な評価がよくわかります。
 
トクヨ先生、明け方まだ人の往来の少ない頃を見計らって、浅野川の河原で、「全体、止まれ!」など号令の練習をしたというのです。トクヨ先生の声はよく通る美声で、後に代々木練兵場の軍人から「トクヨの号令は日本一」と褒められたというくらいですから、浅野川大橋を通りかかった人々は、さぞやびっくりしたことでしょう。
 
私も休日などの折、上流へのいつもの朝の散歩コースを下流に変えて、浅野川大橋のたもとに立つことがあります。大声で一心不乱に号令の練習をする女性教師・トクヨ先生の姿を思い浮かべると、「すごいなあ。私など、とても気恥ずかしくて、できそうにないな」と感嘆させられます。(続)
 
 
注/二階堂トクヨについては多くの人物史研究があります。興味のある方のため、基本的かつ代表的な3冊を挙げておきます。本コラムもこれらに拠っています。
穴水恒雄(2001)『人として女として-二階堂トクヨの生き方-』不昧堂書店
二階堂清寿・戸倉ハル・二階堂真寿(1961)『二階堂トクヨ伝』不昧堂書店
西村絢子(1983)『体育に生涯をかけた女性-二階堂トクヨ‐』杏林書院