金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

DMZ

9月25日

前回に引き続き、ソウル旅行編。これまで訪れる機会がなかったDMZ(Demilitarized Zone)「非武装地帯」。朝鮮戦争の「休戦」を示す軍事境界線と幅4kmの帯状の中立無人地帯で、朝鮮半島のほぼ中央を東西に通る北緯38度に沿うことから「38度線」とも。私たち一行が訪れたのはソウル北西約40km、臨津江(イムジンガン)の対岸に設けられた非武装地帯見学のメッカ,都羅山(Dorasan)展望台。ソウル~都羅山展望台はイムジンガンの流れに沿って高速道路が走っていますが、延々と鉄条網のフェンスと要所に監視所も構築されていました。途中、検問所もあり、軍人がバスに乗り込んでパスポートや身分証明書の確認も行われます。戦争の一時休戦状態ですから、相当に物々しく、独特の緊迫感もあります。

韓国側展望台は雨でしたが、雲の切れ間に北朝鮮開城(ケソン)方面が望まれました。視界が効かない分、想像力が働きます。私が思い出したのは、1945年、父親が平壌師範学校の教師として敗戦を迎えた、当時中学生だった作家五木寛之氏。ソ連兵が進駐してきたピョンヤンを一家で脱出して38度線まで南下、開城(ケソン)の難民キャンプに収容され、1947年仁川(インチョン)から船で博多へ引き上げて、敗戦国民の悲哀を味わったと回顧しています(『五木寛之全紀行6』「半島から東京まで」東京書籍、2002)。

そこでふと疑問。五木寛之氏は「ケソンは街とK江とを見下ろす小高い大地の上に難民キャンプがあって、半島の北側から脱出してくる日本人引揚者たちを収容するアメリカ側の施設があった」と書いていたのではなかったか。ということは韓国側?

帰国後、調べてみると、1945年当時、38度線上にあって、韓国側の統治圏内であったケソンは、1950年朝鮮戦争の勃発により真っ先に北朝鮮の手に落ち、数度の攻防を経て、1953年の休戦協定により、北朝鮮の統治権内となったのだそうです。五木寛之氏の回想の通りです。ケソンは国家から二者択一の帰属の選択を迫られ、以後家族の再会もままならぬ朝鮮半島の離散家族問題を象徴する町となります。敗戦国民の辛酸をなめることとなった日本人引揚者の苦難、朝鮮半島の人々の離散家族、日本国内外にいた朝鮮半島の人々の韓国や北朝鮮への帰国問題。国家や国際政治というものの冷徹非道さ、それに翻弄される人々の怒りや無念さを想わずにはいられません。

DMZではこのほか、北朝鮮が軍事境界線を超えて大韓民国側へ掘り進めたトンネルとされる「南侵トンネル」の見学も衝撃的でした。有事の際に、前線の背後に短時間で兵士や兵器を送り込み、後方攪乱を行う目的で建設されたと説明されていました。トロッコを下りて、しゃがみ立ちがやっとのトンネルを歩くと、荒唐無稽とばかり思えたこのトンネル、妙なリアリティや怨念すら感じられたのも事実です。村上龍『半島を出よ』(1973)は、北朝鮮特殊部隊が木製飛行機で福岡に侵入・占領するというSF的小説として読んできましたが、それだけではないのかもしれません。

朝鮮半島のDMZ。ロシアのウクライナ侵攻ほか世界で頻発する荒唐無稽の数々。世界史や歴史の進歩史観に私は懐疑的にならざるを得ません。世界の修羅をどう生き抜くか。考えさせられたことでした。参加した学生の皆さんは何を思ったことでしょう。

(今回は写真ありません。2011年の東日本大震災後の被災地でもそうでしたが、この度のDMZでも私はカメラを向けることできませんでした。)