金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「蓮の花(その2)『台湾に咲く大輪』」

7月5日

台湾総督府は初の植民地経営。当初から慎重に「台湾旧慣」を尊重し、民生を重視するなど、漸進的政策を採用しました。纏足者は1~2分しか立っていられず、通学には、8~9歳の女子でも家人が背負って往復していたというのです。日本式の学校カリキュラムには体操科の授業もありましたが、とても普通体操などできる状態ではありません。
 
台北国語(日本語の意)学校第二附属学校の日本人教師たちは様々な工夫を講じました。台湾の人々に好まれる「寺廟参拝」。1キロ余りを少しずつ休み休み、ゆっくり歩かせます。体操の時間には、トイレや校舎の隅に隠れて出てこない女児たちをなだめすかして、「柱鬼」。走って倒れそうになったら、近くの柱につかまる鬼ごっこです。次に「羽根つき」を教えたところ、これが大好評。時間があると自ら興じるようになったというのです。女児たちもしばしば纏足の皮が剥け、困ることもあったようですが、運動の楽しさに気づき、また家庭での強制から解放されることもあって、少しずつ纏足の不都合を自覚、解纏足を希望するようになりました。もちろん纏足を解いても、程度に応じて後遺症が残ります。
 
1907年、このような纏足女子用の体操や遊戯の指導方法をまとめた参考書が、前回触れた浜崎伝造「台北庁体操法教程」でした。浜崎は1881年熊本県天草郡生まれ、日本体育会体操学校(現日本体育大学)卒業後、1907年(26歳)、台湾総督府国語学校教員となりました。1920年(39歳)、病を得、台湾で没しています。日本では全く無名。「台北庁体操法教程」は台北庁管内で教本として用いられ、世界で最初にして唯一の纏足者用体操遊戯の指導書なのですが、これまで全く知られておりませんでした。
例えば、「変換行進」という遊戯があります。4人の女子が横一列となり、正しい姿勢を保ちながら、互いに両手を体の前で組んで支えあい、纏足度の高い者は円の内側に、軽い者が外側に位置して、時計回りあるいは反時計回りに向きを変えながら行進する、行進遊戯(ダンス)の一種です。台湾体育史では、これまで日本統治期に「遊戯」が盛んに行われたとの指摘はあったのですが、実はこれは、女子の纏足状態と体操教材を考慮した時に、互いに体を支え合い、纏足の度合いに応じて運動量を工夫できるすぐれた教材として選択された結果だったのです。
 

筆者撮影、金沢駅西広場の蓮の花

1915年、台湾総督府は台湾統治開始から20年経って、初めて「纏足禁止令」に踏み切りました。この年の「第二次臨時台湾戸口調査(記述報文)」によると、全台湾女性135万人余のうち、纏足をしている者約28万人(20.61%)、纏足を解いた者(解纏足者)35.1%、天然足44.2%と、天然足もしくは纏足を止めた者が8割に達し、20年前と逆転していることが分かります。
 
1925年、台北師範校附属公学校(研究部)は、「近年台湾でも女子の体育が盛んになり、纏足を解き、さらに天然足者も増え、学校ではテニス、陸上競技、水泳、乗馬、バレー、バスケなどが盛んに行われるようになった」旨述べています。こうした女子運動熱の高まりを受けて、台湾最大の教員団体・台湾教育会が、1925年、台北第一高等女学校を会場に、台湾初の「全島女子体育講習会」を開催しました。
 
そして、二階堂トクヨ先生(「学長室の窓から」6月5日6月15日を参照)がこの講習会にも関わります。「女子体育は女子の手で」と、日本本土においても女子体育指導者の第一人者となっていたトクヨ先生ですから、台湾教育会が協力を依頼するのも当然ですね。ただトクヨ先生、1922年に二階堂体操塾を創立したものの、翌23年、関東大震災で塾舎が半倒壊。1924年東京府下松沢村(現世田谷区)に移転した直後でしたから、自らは台湾に足を運ぶことはできなかったのでしょう。代わりにトクヨ先生が推薦したのは、人見絹枝・西沢富子さんの二階堂体操塾出身のお弟子さん2名と、奈良女高師で教育ダンスを教えていた内田トハ・御笹政重(みささ まさしげ)さんの計4名でした。陸上競技とダンスの専門家2人ずつという人選にトクヨ先生の思いを見ることができます。
 
一行は、台北で1925年8月10日から10日間にわたって、台湾全土から集まった女子体育指導者計81名を指導。その後、新竹、台中、台南、高雄へ移動、各地で講演と実演を繰り広げました。中でも、人見絹枝選手は身長170㎝、当時としては大柄な女性。台湾でも陸上種目を実演するだけでなく、走高跳び・三段跳び・槍投げで3つの世界新記録を次々と樹立(当時は公認とか未公認とか厳密ではなかったようですが)、大人気となりました。台湾の人々には、「三寸金蓮」から解放された新しい時代の女性を象徴する「大輪の蓮の花」として、その姿が鮮明に焼き付けられたことでしょう。
 
この講習会から約ひと月後、1925年10月、台湾体育協会は、台北・円山運動場において開催した第6回全島陸上競技会に、初の女子種目(50m走、100m走、400mリレー、走高跳び、バレーボール、三段跳び)を加えました。これには、台北第一高女、彰化高女、台南第一高女の3つの高等女学校から、日本人とともに台湾人女子選手も参加しました。台湾人の若き孫娘たちの世代が、地を駆け、空中を跳躍する姿は、纏足のおばあさんたちにしたら、まさに卒倒、狂倒せずにはおられない風景であったことでしょう。
 
実に30年をかけた、纏足解消のための台湾における政策展開。大局的に見るならば、日本の植民地帝国主義政策の一環であることは間違いありません。しかしその時代に巡り合わせた人々の生き方のトリビアを、皆さんはどうご覧になるでしょう。人々の文化や風習に理解を及ぼすことから始めて、無理強いすることなく、しかしやはり痛みや辛さを伴うであろうけれども、人々が本来的に持ち合わせている大きな可能性、希望、未来に向かい、先立って手をとりながら、一緒に歩んでいこうとする教師たちの姿。そしてその中に「誠実にして社会に役立」とうとした日本人の姿があることにも想いをいたしたいと思います。
 
プラトンの洞窟の比喩に見られる教育の困難さと尊さを思い起こし、襟を正さずにはいられません。