金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「『最後の一葉』に想う」

12月15日

クリスマスが近づくと読みたくなる本があります。たいていは子どもの頃、教科書でも読んだ作品ですし、比較的簡単な短編小説だというので、脳トレを兼ねて原典で味わってみようという試み。昨年はケストナー『飛ぶ教室』でした(学長室の窓から、2020.7.6『飛ぶ教室』に思うその12020.7.15『飛ぶ教室』に思うその2)。今年はアメリカを代表する短篇作家オー・ヘンリー(1862-1910)作品。私が一番好きなのは『水車のある教会』なのですが、ネット上でたやすく対訳付き原文を読める代表作『最後の一葉』を取り上げました。もちろん本学図書館にもあります(参考文献参照)。

以下私の要約です。
物語の舞台はワシントンの一角にある、あまり売れない芸術家達が集まり棲む古びたアパート。最上階の三階でふたりの若い女性が貧乏な暮らしをしていました。ジョンジーはいつかナポリ湾を描きたいと夢見る画家なのですが、冬の訪れとともに肺炎を患い、もはや生きる希望を失って窓の外に目をやり、隣の煉瓦の建物の壁を這う蔦の葉をぼんやりと眺めていました。「三日前は百枚くらいあったのよ。…もう残っているのは五枚だけ・…最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に行くのよ」。

一緒に住む友人のスーは階下に住むドイツ出身の老画家ベールマンを訪ね、ジョンジーのことを話します。ベールマンは、口ではいつか傑作を描いてみせると豪語しているものの、四十年間ろくな仕事もせず、強いジン(酒)をあおっては世の中をあざ笑う自堕落な生活を送っていました。(彼のドイツ語訛りの英語は日本語訳では東北風方言に置き換えられていますね)

その夜、みぞれまじりの激しい嵐が吹き荒れます。次の朝、ジョンジーは窓の外を見たいと言います。すると、蔦の葉がたった一枚だけ、激しい嵐の後にも関わらず残っていました。次の夜にも激しい風雨が吹きつけましたが、最後の一枚は壁にとどまっていました。それを見たジョンジーは「いつかナポリ湾の絵を描きたい」と未来に想いを馳せるようになり、回復していきます。

そして、その頃、ベールマン老人は重い肺炎で亡くなりました。そうなのです。最後の一枚の葉は、嵐の夜、画家ベールマンさんが冷たい風雨にさらされながら、自分の過去から現在までの全存在をかけて一枚の絵にすべての願いと想いを投企し、命を懸けて壁に描いた最高傑作だったのです。

筆者撮影、浅野川沿いの外壁に残る蔦の葉

この写真は私が撮った浅野川沿いの外壁に残る数少なくなった蔦の葉です。「最後の一葉」に挿入できるかなと撮りました。でもベールマンさんの絵とは全く意味が違います。何が違うのでしょう。皆さんお分かりでしょうか。

歴史には、ドイツ語で2種類の言葉があります。ヒストーリエとゲシヒテです。ヒストーリエというのは簡単に言えば、「ヒストリー」「物語」「お話」、ゲシヒテは動詞ゲシェーエンから来た「出来事が起こる」「生起する」と言う意味です。簡単に言えば、ヒストーリエは「書かれたお話(歴史)」、ゲシヒテはヒストーリエとして書かれる元になった「出来事」です。

私の写真は「ストーリー」を飾る、言わばあってもなくてもどちらでもかまわない写真に過ぎないのですが、ベールマンさんは自らの命と引き換えに一枚の絵を描いて(ゲシェーエンして)一つの「出来事を起こした」のです。そのような名もなき人間の生き方の「生起」であっても「歴史」を変えることが可能なのですね。

自分の仕事や生きて来た意味を確認し、証として残したいと願うのは、芸術家に限らず、私たち誰もが願うことでしょう。その際、名誉・金・世間の評判など、世の脚光を浴び、世に認められる形の評価に私たちはとらわれがちです。それも確かに一つの証でしょうが、ベールマンさんのように全く脚光を浴びることなどなくとも、小さな証は無数に立てられるのではないでしょうか。「誠実にして社会に役立つ」ということの真の姿だと私は確信します。
参考文献
・結城浩「最後の一葉」 日本語訳 対訳付き http://sekamei1-last-leaf.sblo.jp/
・田畑則重(解説)『英語で読むオー・ヘンリー傑作短編集』(CD-ROM付)IBCパブリッシング、2013(2017 第2刷)
・川原栄峰『ハイデガーの哲学と日本』高野山大学、1995