金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」

1月15日

皆さん、日本ではお日様は、ふつう「真っ赤な太陽」として描かれます。子どもも大人もそれが当たり前だと思っています。ところが、大昔、私が子育て中に手にしたドイツの絵本を見たら、びっくり。ドイツの太陽は「黄色」く描かれていたのです。ドイツは日本に比べて緯度が高いから、黄色に見えるのかなとその時思いましたが、その後ドイツ旅行の際に確かめると、私の眼には日本と同じく「真っ赤な太陽」でした。

私には赤く見える太陽がなぜドイツ人には黄色く見えているのか。
光の波長か何かを厳密に測定したら、緯度や季節によって多少は違いがあるのかもしれませんし、一般に黒い瞳の日本人と灰色がかったドイツ人の瞳ではフィルターの生理的機能に多少差があるのかもしれません。でもわたしたちは太陽(対象)は一つなのだから、見る人によって違う色になるはずがない(同じ認識を持つ)と考えます。これは古代ギリシャ以来の伝統的な認識論の考え方なのですが、カントはそうじゃないといいました。見る人によって、見え方が違うのだと。

筆者撮影 浅野川 雪の朝

例をあげます、私は子ども一般が大好きなのですが、とりわけ孫たちの可愛さはひとしおです。大勢の中の子どもの一人なのではなくて、どこにいてもすぐ目に付く特別な存在なのです。つまり祖父という目で見ている(カントはそのことをカテゴリーと呼びました)から、孫たちの一挙手一投足がいっそう愛らしい。

学生の皆さんの場合には次のようなことでしょうか。あなたの恋人はあなたが可愛いから好きになった(きっかけにはなったとしても)のではなく、あなたが大好きだから、あなたがより可愛く見えているのです。日本では昔から「あばたもえくぼ」「惚れた弱み」などと笑いのめしていました。つまり、好きな相手なら、欠点でさえよく見えるのです。対象がどう見えるかという問題は、その人の心の在り方(認識)に従うのだということなのですね。

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」。カントの有名な認識論の言葉ですが、「あばたもえくぼ」、人間のものの見方に関する道理(ことわり)として考えると、わかりやすいかもしれません。また、その認識は先入見として、時には差別や偏見にもなり得るのだということも一方で理解しておきましょう。