金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

私たちの出番-能登半島地震から3週間

1月25日

「むごいのう、ひどいのう、なひてこがあして別れにゃいけんのかいのう」
1945年8月広島が舞台の劇シナリオ、井上ひさし『父と暮らせば』の一節です。原爆で崩れ落ちた家に組み敷かれ身動きの取れない父竹造を救おうとする娘美津江が、「はよう逃げろ」とつぶやく父に、泣きながらかけた最後の言葉でした。

あれから80年、2024年1月1日、「令和6年能登半島地震」。私たちは時空を超えて、悲しいことにまたもや多くの竹造と美津江を見ることになってしまいました。迫りくる大火災のほかに大きな余震と大津波警報。状況はいっそう過酷だったかもしれません。

被災した本学の学生の一人は家が倒壊、家族は無事だったもののいくつかの場所・施設に分散避難。「私だけが安全な金沢のアパートに戻って申し訳なくて…」と美津江さんと同じように罪悪感に駆られ、涙ぐんでおりました。慰める言葉もありませんが「次の能登を支えていく力を今蓄えるのがあなたの役割。ともに歩みましょう」と語り掛けたいと思います。

そして1945年の広島と違うのは、1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災など幾度も繰り返す悲惨な災害を経て、私たちは互いに助け合う心を強くし、それらの具体的なノーハウを蓄積し続けたことです。倒壊した家を手作業でかたづけながら逃げ遅れた人を救おうとする警察官や消防隊員、医師・医療関係者、泥だらけになりながらリュックを担ぎ、孤立集落に物資を運ぶ自衛隊員など、全国から集まった緊急援助チームの方々の心強い存在と地道な活動に私は満腔の感謝と敬意を覚えます。

さて、あれから約3週間が経ちます。1月27日からは民間ボランティアの受け入れも始まるとのことです。東日本大震災の被災地からも「今度は自分たちの番」との声が上がり、日本全国はもちろん台湾など海外の多くの国と地域から義援金や支援の申し出があるとのことです。行政や自治体にとどまらない民間や個人のこうした自発的な支援もありがたく思います。まさに「絆」です。

私たちはこうした悲惨な体験を通して、次なる悲惨をどうしたらなくすことができるか、またすこしでも軽減できるかを考え続けたいと思います。また今後は能登の創造的復興を見据えた中・長期にわたる息の長い支援が必要になります。私たち金沢星稜大学女子短期大学部の学生、教職員も「誠実にして社会に役立つ人間」を育成する高等教育機関の一員として、地域とともに歩みながら、できることをやり続けたいと思います。
参考文献
井上ひさし『父と暮らせば』新潮文庫、平成10年