「日本疫学の父」高木兼寛(その2)
2月5日
「江戸わずらい」と呼ばれた脚気はもちろん白米中心食によるビタミンB1欠乏症であることは、今や小学生でも常識です。1910年、鈴木梅太郎博士が米糠から抽出した「オリザニン」が脚気治療に卓効を現すことに着目、世界的なビタミンの発見につながりました。それは、長い間日本の陸軍・海軍が試行錯誤を繰り返しながら、総力を挙げて脚気の対策に取り組んだ、その経験知の上に建てられた金字塔でもあったのです。
日清戦争(1894-1895)による陸軍の総死者数は13,488人、そのうちなんと4,064人、じつに30%が脚気による戦病死だったのです。建軍期の日本は、陸軍がフランス(のちにドイツ)、海軍はイギリスをモデルとしましたから、当然軍の医学もそれに倣います。1882年、ドイツ人医師コッホ(1843-1910)によって「結核菌」が発見されたばかりでしたから、陸軍では「脚気菌」の発見に傾注し、高木らの海軍イギリス医学派は「栄養由来説」を疑います。
どちらも学問的であることは同じですが、ドイツ医学が病気そのものの解明や学理的研究を志向するのに対して、イギリス流医学は病気そのものの解明もさることながら、結果として患者の軽快や治癒を目指すことを重視する違いがあるように思われます。大陸合理論とイギリス経験論の立ち位置の違いなのかもしれません。
これまで目にしてきた国立大学附属病院とか昔の陸軍病院の系譜に連なる医療機関は、ドイツ医学の流れをくむ病院だったと思います。入院病室は、白いカーテンで田の字型に仕切られた大部屋が原則で、電話は廊下にある公衆電話(スマホの普及でこれも間もなく死語になるでしょう)、テレビは有料というのが標準だったように思います。フーコーがいう一望監視(パノプティコン)が近代的な様々な組織・機関に適用されており、病院も例外ではありません。それが当たり前だと思っていたところ、数年前家人が緊急入院した病院は、東京の某私大出身のお医者さんが経営するイギリス流の病院でした。病室は個室に近い相部屋、カーテンも淡いピンクで花模様がついていました。驚いたのはテレビが無料、枕もとには電話まであったのです。スタッフに尋ねたところ、「入院患者さんにこそテレビや電話は必需品でしょう」。いたく感心し、感激しました。個人的な狭い見聞でしかないのですが、医学におけるドイツとイギリスのスタイルの違いを見る思いがしたものです。
さて高木兼寛と帝国海軍の話に戻ります。 人的・物的補給のきかない航海中の艦船の中で、三分の一の乗組員が脚気になるということは、即、航行作戦自体が不能になることを意味します。1883年、ハワイ、南米、ニュージーランドの長期・遠洋航海に出た軍艦「龍驤」(りゅうじょう)は乗員376名のうち169名が重症の脚気になり、25名が死亡するという非常事態に陥りました。「ビヤウシヤオオシ カウカイデキヌ カネオクレ(病者多し 航海できぬ 金送れ)」。ハワイから届いたこの悲痛な至急電報は海軍を震撼させずにはおきませんでした。
1883年、高木兼寛は、軍医として海軍の白米食中心の兵食を大胆に改善します。イギリス海軍をモデルに洋食化を図り、パン食を支給したのですが、これは兵士たちにはぱさぱさして不味いと不人気。それならば原料が同じ麦を白米に加える、あるいは野菜や肉などが入った「カレーライス」を考案するなど、日本人に合った海軍食の工夫を凝らします。今に至る「海軍カレー」などもここから生まれたのですね。
1884年、改善食を施した軍艦「筑波」により、「龍驤」と同一コースをたどる比較実証実験航海が行われました。ハワイから届いた電報は「ビヤウシヤ イチニンモナシ アンシンアレ(病者 一人もなし 安心あれ)」でした。この電報を手にした時の高木兼寛の心境はいかばかりだったでしょう。ぜひこの感動的なシーンを、吉村昭『白い航跡』(1991年)でお読みください。
さて新型コロナウイルスの世界的感染流行(パンデミック)に対して、私たちもいつか「病者 一人もなし 安心あれ」と宣言したいものです。尾見茂先生はじめ全国・全世界の医療従事者の方々に感謝と敬意を表しつつ。