「訪れてみたい海外の2つの町-その2 ケーニヒスベルグ-」
10月15日
ケーニヒスベルグは、哲学者カント(1724-1804)が生まれ、暮らし、また79歳で没した終焉の地です。カントの3人の弟子(ボロウスキー、ヤッハマン、ヴァジンスキー)が『カント その人と生涯』(芝丞訳、創元社)という伝記を書いており、その中に町の様子やカントの生活の様子が克明に描かれています。
巻末には第二次大戦前の二万五千分の一の市街図まで付されています。街の真ん中にお城(宮城)があって、その南にプレーゲル河が東西に分岐しながら流れ、池や河跡湖が南北あちこちに点在し、河口近くであることをうかがわせます。中心部から半径2キロくらいに城壁がめぐらされ、要所に城門が見えます。町の南西部の一角にケーニヒスベルグ駅がありますが、鉄道はほぼ市街地に入ることなく、基本的に城壁の外側を走っています。現在の人口が約42万人といいますから、都市の規模や構造が金沢とよく似ていることに驚かされます。
ケーニヒスベルグ(ドイツ語で「王の山」の意)は、1255年にプロイセンの東方植民によって建設されたバルト海の港湾都市で、ドイツの東北辺境の重要都市のひとつでした。1946年、ロシア領になったこの町は、カリーニングラードと呼ばれるようになり、第二次大戦後はロシア・バルティック艦隊の母港とされたというほうが分かりやすいかもしれません。北緯54度とかなり北方にあるのですが、海洋性気候のため、冬でも内陸部ほど厳寒ではないようです。
さて、カント先生は毎日、夏も冬も朝5時起床。2杯の紅茶と一服のたばこで朝食を済ませ、7時まで書斎で講義準備、その後9時まで大学の講義に出かけ、帰宅して12時45分まで仕事。午後1時から4時まで招待客とともに書斎で昼食。カント先生はちゃんとした食事は1日1食、この昼食がメインでしたから、3時間をかけ、またその内容も豊かなものだったようです。食卓は3皿からなり、1皿目は米や麦の入った肉(たいてい牛肉)のスープ、2皿目は干した果実や煮た豆類ないし魚肉類(カントの好物は鱈)、3皿目は焼肉であったそうです。ほとんどの料理にからしを用い、飲み物は赤葡萄酒のメドックで、バター・チーズは食後のつまみとしても好んだといいます。
その後、午後4時から1時間「哲学者の道」を散歩。天候によって簡単に散歩をやめることはなかったといいます。散歩の後は読書だったそうですが、この時間、訪れた友人たちと歓談することが一番の楽しみだったそうです。こうして午後10時ちょうどに就寝。すなわち、睡眠時間は7時間です。カント先生の日課はこのように規則正しく、時計のごとく正確でした。町の人々はカント先生の散歩する姿を見て、時刻を知ったということです。
感動するのは、78歳になったカントが老衰期を迎え、死去する前年の1803年8月、お弟子さんのヤッハマンが自宅に見舞った時のことです。「最も高く、最も尊い精神の喜びに浸らせてくれた」懐かしい書斎に入ると、腰のかがんだ老人が足元を震わせながら現れ、「どなただったでしょうか」と尋ねたというのです。この厳粛な記述には胸をうたれます。カント先生の食事のマナーは「そうたしなみのあるようには見えなかった」、「見苦しさは避けられませんでした」というヤッハマンの証言から、私はカントが一人の生身の人間であったことに改めて感動させられたのでした。
ケーニヒスベルグ。現在、ロシア領カリーニングラード。当時の面影は失われているのかもしれませんが、一度この町を訪れ、カント先生が歩いた「哲学者の道」を歩いてみたいと念願せずにはいられません。
最後に、私にとって「最も高く、最も尊い精神の喜びに浸らせてくれた」カントの言葉を紹介します。
「しばしば、そして長く、それを考えれば考えるほど、ますます新しく、ますます大きな驚嘆と畏敬で心を満たすものが二つある。それは、わが上なる星の輝く空と、わが内なる道徳律である。」(カント(川原栄峰訳)『実践理性批判』)