金沢星陵大学女子短期大学部

学長室の窓から

「キャンパス清掃に感謝」

10月25日

Sei-Tanのあるキャリアデザイン館はもとより、大学校舎、図書館、体育館、玄関から中庭、駐車場に至るまで、キャンパス内がいつもきれいに保たれていることに気づいていらっしゃることでしょう。トイレなどいつもピカピカに輝いていて、気持ちが良いですね。10月も後半、アメリカ楓の紅葉が見ごろを迎え、落ち葉の量もおびただしいはずですが、いつの間にか片付けられています。中庭、駐車場もいつも整然として、秩序が保たれています。これが自然にそうなっているのではないことは、例えば私の研究室を見れば一目瞭然です。もちろんたまには自分で掃除をしているのですが、床も流し台もいつの間にか汚れ、黒ずんでしまいます。
 
そうです。駐車場では炎天、風雨雪にかかわらず、警備員さんが整理・警備をしてくださり、また清掃には授業が始まる以前から、大勢の方々が清掃用具一式を持って当たってくださっている姿を見かけたことがあるでしょう。新幹線が到着する3分前から、整列して迎え、発車までのわずか7分間ですべての清掃をこなしてしまうチーム「TESSEI」の仕事は「セブンミニッツミラクル」と呼ばれて有名になり、国内外で大きな驚きと称賛を浴びました。本学にも同様の清掃のプロ職人さんたちがいるのです。
 
山崎豊子『沈まぬ太陽』(1999)のテヘラン編の中に、主人公がテヘラン大使館付属の日本人学校設立に奔走する話が出てきます。生徒数21名、大使を校長として何とか設立にこぎつけ、教師として日本から赴任してきたのが3人の石川県関係者だったというのです。2人は金沢大学を卒業したばかりの22歳の新米教師(国語の若木先生という名前まで出ています)、教頭は石川県教育委員会の呼びかけに応じた現職の理科教師であったと、具体的に明らかにしていることから、おそらく事実に基づいているのでしょう。初冬のテヘランに雪が積もった時、「金沢出身の日本人学校の教師は、十センチ程度の雪など、積雪のうちに入らないと、普段通り授業をして、テヘラン中の学校の話題になった」という記述もなるほどと思わされます。その若木先生が、下校時に掃除を命じると「掃除なんて、サーバントのすることだ。以前通っていたアメリカン・スクールだって、掃除はサーバントがしていた、僕らはやらない」と子どもたち。「だら!君らは日本人じゃろ!」と先生は大声で一喝。「じゃろは」金沢弁だったら「やろ」でしょうが、「ばかもの」を意味する金沢弁「だら」が出てくることで、実話の確信度は頂点に達します。
 
日本ではいったいに、高校までは清掃活動も教育の一環として位置づけられ、原則的に児童生徒が行います。防衛大学校ではやはり訓練の一環として新入学生が担当しているそうです。大学でもそうしたら経費節約になる可能性があります。そうしないのはなぜでしょうか。その理由を福澤諭吉『学問のすすめ』は、「職分」ということばで説明しています。簡単に言えば、プロが行う仕事は、例えば清掃一つとっても、それにはそれだけの誇りと価値があって、誰でもができることではないのだということです。同じように、学生には「勉強するプロ」であるという「職分」があり、教師には教師の「職分」があるのだという考え方です。ですから、仮にだらだらと遊んでばかりいる学生がいるとしたら、その人は学びのプロであるはずの大学生として、「職分」を果たしていないことになります。
 
日々、きちんと見事に「職分」を果たしてくださっている、警備員さんや清掃係の皆さんの姿や仕事の成果である、整頓され、きれいなキャンパスを見るにつけ、感謝とともに、できるだけきれいに使おうという気持ちにさせられます。そして、同時に、われわれ一人ひとりに課せられているそれぞれの「職分」をきちんと果たさねばという思いを新たにさせられます。
「皆さん、いつもありがとうございます!」