「Sei-Tan Act! スキー・スノーボード体験」によせて
2月15日
Sei-Tanでは、今年度も2月12日、学友会の企画で「Sei-Tan Act! スキー・スノーボード体験」を一里野スキー場で開催しました。私も大いに楽しみました。
日本における本格的なスキー指導は、オーストリア陸軍レルヒ少佐が1911年1月12日、新潟県高田市(現上越市)の陸軍第13師団の14名のスキー専修員に技術を伝授したことに始まるとされています。陸軍は山間積雪地における実用的な移動手段としてスキーに注目したのでしたが、当初から軍隊だけではなく、鉄道や電線保守、営林局や郵便局の配達など民生、体育・スポーツ用にも役立つとして講習会を開き、そのノーハウを公開しましたから、高田は日本におけるスキー普及のメッカとなりました。
石川県にスキーがもたらされたのは、1916(大正5)年、金沢郵便局の命を受けて、白峰郵便局長松原伝吉氏が高田の講習会に赴き、帰途大乗寺山で滑ったのが最初です。当時の新聞に写真入りで報じられています。また1923(大正12)年1月23-27日、当時の石川県教育会が主催して、第1回スキー講習会を開きました。場所は旧鳥越村阿手(現白山市阿手)です。講習会参加者は、金沢市や石川郡など地元のほか、鹿島郡、鳳至郡、珠洲郡など能登地方を含む全県下から29名でした。ほとんどが小・中学校、女学校の先生、吏員たち(全員男性)です。指導者は5名。阿手は鳥越方面から、曲がりくねった断崖絶壁の大日川渓流沿いの県道144号の山道の最奥の集落です。ことに冬季積雪期の交通は現在でも困難を極めます。さてここまでいったいどうやってたどり着いたのでしょう。
その答は、何と鉄道と鉱山のトンネルです。当時の記録を見ますと、当日北陸線で小松駅に集合、そこから尾小屋鉄道に乗り換え、終点尾小屋着後、鉱山事務所でカレーライスの昼食をとり、坑道をカンテラで照らしながら、鳥越村阿手に出ています。阿手にも鉱山(阿手鉱山)がありましたから、旅館、民宿があって分宿し、4泊5日のスキー講習を行ったのでした。
1997(平成9)年、旧鳥越村教育委員会のご協力で現地調査を行い、阿手隧道(トンネル)跡、また講習が行われたとみられる阿手小学校跡地わきの急な斜面などを案内していただきました。もちろんリフトなどない時代ですから、ひたすら自分の足で斜面を登っては滑り降りる、その繰り返しだったでしょう。そもそもスキーは雪上の移動手段として位置づけられていましたから、滑り降りるのはもちろん、スキー登高も大事な技術だったのですね。
この講習会はその後、県内のスキー普及に大きく貢献。金沢市内・石川県内の諸学校に急速にスキーが普及します。特に女学校では、「北陸の女性は冬季は家の中にいて…引っ込み思案になりやすい。白皚々(はくがいがい:見渡す限り雪で白いこと)たるスロープを滑らして壮快な気分を養成したい」と奨励されます。1924(大正13)年1月には、石川県女子師範学校・第二高等女学校は全校5百名余りが学校(広坂)から大乗寺山までスキー練習に出かけます。「どうせ滑るなら雄大に滑れ!北陸女性の踏む雪よ!」と歌いながら。当時第二高女4年の腰野美代子さんはその時の模様を「スキー」と題して次のように書き残しています。
「あらっ。また転んじゃった。まるではずみを食らった大きなマリのようにいやという程打ちつけられた。今度こそはと意気込んで見たんだけれど…。左右には矢張り同じ様子の友が顔をしかめて転がっている。そして余りおかしくてとうとう吹き出してしまった。私たち二人はいいかげん尻餅にも厭きてどっかりと雪の上に座った。羽織も袴もびしょびしょだ。思い出したように『なんて綺麗な空ね』と友がつぶやく。…スキー。雪国の人にのみ許された特権のこの競技、私どもはうれしさを禁じ得ない。冬晴のこのスキーこそ、暗うつな北国の冬を、動的な明るい色紙の満ちた冬に導く。」
このように、スキーは北陸の冬の女子学生たちの生活を一変させたと言ってよいでしょう。皆さん「どうせ滑るなら雄大に滑れ!北陸女性の踏む雪よ!」。百年前の女子学生の喜びと気概に思いをはせながら、ウィンタースポーツに親しんでください。