「二つのアレイ」
5月25日
「筋トレ」に関心をお持ちの方なら、一度はどこかで手にしたことがあるかもしれません、「アレイ」。最近は、ほとんど金属製の「鉄アレイ」でしょうか。
ところで、この「アレイ」は何語なのでしょう。答えは驚くなかれ、日本語です。英語では dumb bell(ダムベル)、dumbは「口のきけない人」(唖者)、bellは「鈴」だったので、「唖鈴(アレイ)」。アレイってダムベルの直訳日本語だったのですね。あれあれ!
明治になって、西洋の学校教育に範をとった文部省は、「学制」によって学校制度を整え、教科に「体操」を設けました。しかし、当時の日本には体操科のノウハウはなし。指導者も、テキストも、運動場すらない。ないない尽くしです。
写真は筆者が所蔵する唖鈴です。県内某小学校で、昔使用された実物と伝えられています。石川県内で使用された、おそらく明治期の軽体操用具ですから、ひょっとして森山定吉氏製作の一つである可能性があります。
また、ひところ石川県立歴史博物館の近代・教育に関する常設展示品の一つに、体操用具として「唖鈴」が展示されていました(現在の展示は未確認)。これは「鉄唖鈴」でした。だとすると、金沢医学館(金沢大学医学類の前身)が、明治8年に日本で最初に作った体操用具である可能性があります。
医学史に詳しい板垣英治氏の一連の研究で明らかなように、医師ホルトルマン先生の講義ノートである、藤本純吉「医事小言」(明治8年)が玉川図書館に残されており、その中に「ハルテルス」を用いた「体操運動」が詳しく記されています。記録に残された限りでは、受講生が記した日本最初の詳細な学校体操指導記録です。
さらに当時学生であった田中義雄氏が、のちに「ハルテルス」は「現今の唖鈴」であり、ホルトルマン先生は「大樋町鍋屋(鍋釜鋳造所)」でこれを作らせ、校庭で「一、二、テレー、(エン、テベエ、)三」等のオランダ語と日本語の混合の号令をかけて学生たちに指導してくださったと回顧しているのです(『金沢大学医学部百年史』)。
金沢市大樋町の鍋屋で作らせたというのですから、これは明らかに金属製「鉄唖鈴」でしょうし、県内ではほかに「鉄唖鈴」が製作された記録は見当たりません。
「鉄の唖鈴」と「木の唖鈴」。この二つはひょっとしたら、明治期石川県のみならず、わが国近代体育史上の知られざる一面を語る、とてつもない貴重な記念品なのかもしれません。
30年前、私はこの二つのアレイの製作過程をめぐって、現地調査も行いましたが、残念ながら詳細は追いきれませんでした。残念な限り。今でも夢のままです。(拙著『明治期比較体育史研究』参照)