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出でよ!大学の新たな源平椿

2023年02月01日 学長コラム

これは哲学・思想家であり武道家の内田樹氏が言っていることですが、私たちは、子どもの時から、どんなことでも、予め、何のためにそんなことをするのか、そういう風にするとどんな効果があるのか、という説明があるのが当たり前だと教わり、またそのような思考方法を身につけてきました。これは「消費者」としては当たり前ですね。物を買う時に、商品を手にとって、「これは何の役に立ちますか」と聞かれて「さあ、よく分かりません。使ってみてください」と答える売り手は通常いないでしょう。中身が分からなくて買うのは「お正月の福袋」くらいでしょうか。これとて価格以上の商品が入っているはずだと予測できるからですね。

かつて自宅の庭に植えようと、家内と椿の苗木を探して植木市に行ったことがあります。ガーデニングが趣味という程のこともないので、花の形や色にもほとんど拘りはなく、単なる運搬役。たまさか、手ごろな値段の苗木を見つけ、「これはどんな花が咲きますか」と問うたところ、「さてそれが分からないのですよ」と植木屋さん。その答えを聞いて、「それは楽しみだ」と即決で買い求め、家内から怪訝な顔で見られ、また呆れられたことがあります。数年して、その椿は1本の樹に白と赤の2色が咲く、「源平咲」と呼ばれる貴重種ないし珍種であることが明らかとなり、結果的に私は面目躍如。接ぎ木のためなのか、色素を作り出す遺伝子の突然変異なのか、原因は定かではありませんが、梅、桃、椿などに時折見られるとのことです。

職業柄、これまで数多くの入学や採用時面接などを手掛けてきましたが、これは本当に難しい。樹木にしてさえそうなのですから、いわんや人間においておや。おそらく当のご本人ですら分からないのですから、やむを得ません。どちらかというと私は、その人の現在の能力や資質の優秀性もさることながら、将来伸びるだろうか、大きく化けるだろうかといった将来性を見極めたいと考えて向き合ってきました。

ヨーロッパ由来の教育論と日本の伝統的な教育論・修行論の違いを、内田氏はおおよそ次のように説明しています。 家庭でも学校でも子どもたちは何かをする時に「これをすると、これこれこういう良いことがある」という説明を受けて、取り組み始めます。努力に対して、どのような報償があるか予め示されているから人間は努力する。報償が示されなければ、努力する人間などいないというのが、ヨーロッパから伝わった教育論の基本的な視点だというのです。つまりヨーロッパの教育論・修行論の特徴は「有は無から生まれない」という古代ギリシャ以来の原則に立ちます。確かにそうですね。

教育とは、その人の中に埋もれている才能を表に引き出す「educare」ことを意味しています。エデュケアというのは元来引き出しのこと。ただ埋もれていてそのままでは引き出せない。ディスカバー「discover」も土とか大理石などに覆われていて、そのままでは中は見えない。だからそれらの余分な覆いを取り除くことによって、初めて中身が見えたり、引き出しが開いたりする。だから教えるということは「もともとあった能力」を引き出して伸ばしていくことであるというのですね。

一方、日本の修行論は仏教の影響もあって、「もともと自分の中になかったものを獲得する」という立場に立ちます。つまり「無から有が生じる」という考え方です。古代ギリシャでは否定され、キリスト教の教理の中で認められた考え方です。現代科学や思想ではなかなか理解されにくい類の考えです。

しかし日本の修行論では、修行者がひたすらに修業を積み重ねていくと「突然悟りを開く」境地を体験することが重要と説かれます。ドイツ語の「悟り」は、Erleuchtung(エル・ロイヒテゥング)というのですが、これは雷光に打たれたように、何の脈絡もなく、突然分かるということだそうです。つまり、本人も自分自身の中にそんなものがあったということを知らずにいたのですが、修行によって、突然にそれを感知し、制御できる形で経験されるものであるために、段階的な途中のプロセスなど知る術がない。つまり、言葉で説明などできるはずがない。ましてや教えることすらできない「不立文字(ふりゅうもんじ)」の世界であるというのです。

卑近な例で言えば、多くの人は自分自身でいつどうして自転車に乗れるようになったのか分からないが、いつの間にか乗れるようになっていた体験をお持ちだろうと思います。スポーツの世界でも、「理屈じゃない。ひたすらやっているうちに分かるんだ」という指導が行われ、しばしば「非合理」と批判もされます。安易な体験主義は困りものですが、「不立文字」の世界は言うまでもなく、仏教の「悟り」という修行論からくる考え方でもあります。それによって新たな知性や知見が得られるのであれば、それに知性の眼差しを向けることに躊躇は要りません。

最高学府と言われる高等教育機関としての大学は、それまでなかった新たな発見・発明、理論や技術のほか、人間の見方、考え方、教育、価値観など、新しい品種や変異種などを大事にしなければなりません。「出でよ!大学の新たな源平椿」ですね。

筆者撮影 雪晴れの浅野川(杜の里付近)

引用・参考文献
内田樹『修行論』光文社新書、2013(お薦めです)