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私の学生時代(その2)

2022年10月01日 学長コラム

私が学生だった1970年代、ともかく貧乏な時代でした。月末になると机の引き出しを逆さにして1円玉をかき集め、ようやく銭湯(たしか30円位)に行くことも。1971-73年まで『週刊少年マガジン』(講談社)に連載された松本零士の漫画「男おいどん」の生活そのもの。身につまされたものです。4畳半のぼろアパートで、金も無い、腕力も知恵も無い、彼女もいない。将来への展望など見いだせない絶望的な状況のなかで、仲間の一人に仕送りやいくばくかのバイト代が入ったという朗報だけは直ちに共有され、当時一番安かったトリス・ウィスキーとサバ缶を皆で車座になって分け合ったものです。「いつの日か、角(サントリー角瓶)とは言わない、せめてホワイトと鮭缶にしたいものだ」などと夢見ながら…。

前回お話したように、1974年、私は早稲田の第二文学部へ通い始め、哲学の川原栄峰先生に私淑し、哲学と歴史を学びました。もちろん、仕事優先ですから、勤勉、成績優秀というにはほど遠い。でもニーチェとか、カントとか、ショーペンハウエルなど、全然世の中に役に立ちそうもない学問は、なんだか自分に合っているように思えて、初めて学問の面白さに触れた気がしました。遅い時には、帰りは終電、午前1時過ぎに帰宅。翌朝は6時台の電車でしたから、まさに体力勝負。給料は学費と本代、そして酒代に消えました。給料日になると、近くの飲み屋や食堂のおかみさんが来て、半分近くを持っていってしまいます。何とか卒業した後、私はもう少し勉強したいと思いました。川原先生から体育・スポーツと哲学・歴史を融合させてはとアドバイスをいただき、1979年、筑波大学大学院入学を決めました。今度は昼は大学へ、夕方から定時制高校で講師のバイトです。

体育・スポーツ史の権威、成田十次郎先生から歴史学のプロフェッショナルな研究者としての細かいノーハウから心構えに至るまでさまざまな教えを受けました。一番記憶に残っているのは、与えられた課題が思うようにできず、「すみません。時間がなくてこれしかできませんでした」と言い訳した時でした。「時間のせいにするんじゃない。精いっぱいやって、これしかできませんでしたと言いなさい」と一喝。目が覚めた瞬間でした。

ドイツのスポーツ教育の歴史的転換について修士論文を書き、大学院を終えた時に、私はこう思いました。自分の研究はあまり世の中に役立つとは思えないが、それでも自分には一生かけて取り組む研究テーマができた。自分や家族が暮らしていくために、仕事は何をやってもいい。収入が必要ならば、現場の肉体労働もいとわない。その仕事が一段落、休みや暇ができた時には、いつだって自分の研究テーマに戻ることができる。もう迷わない。よし一介の貧乏研究者で生きていこう。もう見栄を張ったり、いい格好をするのはやめよう。そう決心して、定時制高校で講師をしていた私に、1985年2月の夕方、成田先生から電話が入りました。「盛岡に小さな大学があって、先生を探している。行くかどうか、奥さんと相談して夜7時までに返事をくれたまえ」。これが私の大学教員のスタートとなり、現在に至ります。

ここで、言いたかったのは、人生には無数の分かれ道があるということ。またなかなか自分の思い通りには展開しないということ。しかしいずれの場合も人生の分岐点において、自分で道を選んだということは間違いありません。あの時に別な道を選んでいたらと、多少の悔恨をもって空想することもありますが、やむを得ないことであります。私は、それ以上の人間でもないし、またそれ以下の人間でもありません。貧しさの中で育ち、ようやく勉強を続け、良き師に出会ったおかげで、ここに生きている、あまりさえない一介の研究者でしかありません。愚直に生きるだけです。

筆者撮影 浅野川の彼岸花:2022年8月7日、成田十次郎先生の訃報に接しました。享年89歳。心からのご冥福と感謝の念を奉げます。