学長コラム
私の学生時代(その1)
2022.08.01
「学生たちの参考に、学長の学生時代はどんなでしたか?」進路支援課からプロフィール作成依頼が来ました。実はこの質問ほど私が当惑・困惑、また恐れているものはなかったのです。
正直に白状するしかありません。
「えっ、そんな人が学長!」と驚かれるかもしれませんが、学長就任に一番驚いたのが当の本人でしたし、これまで「愚直」を信条としてきましたので、今更粉飾もなりますまい。私の学生時代は3つのフェーズに分けられますが、先ずはその第1フェーズ。恥ずかしながら、どうぞ反面教師になさってください。
1970年を挟んだいわゆる大学紛争の時代、入学式後間もなく大学は封鎖され、授業が再開されて以後もほぼ4年間、私はまともに大学へ行っていないのです。これ幸いとばかり別の学校(自動車学校)に行き、そこを超優秀な成績で卒業。アルバイトと、昼夜逆転の読書三昧の生活に明け暮れました。サルトルとか高橋和巳などと格闘していました。
今なら遠隔授業でしょうが、当時は学期末にレポート課題が下宿先に郵送され、適当に書いて提出すると、いつの間にか単位が出ているという次第。成績は「優」「良」「可」が各3分の1。一番多かったのは「放棄」でした。つまらない学問などこちらから願い下げだと虚勢を張っていたからですが、これは若さ故の無知からくる傲慢というものでしょう。シラバスに即した15回の授業など、当時あったのでしょうか。あったにしてもブラックバス、事実上の空文規定。全く気にもしませんでした。無責任といえば無責任、自由といえば自由な時代。大学にとっても大量留年はそもそも空間的・物理的に不可能ですから、苦渋の選択だったのでしょう。私は卒業に必要な最低限の単位しか取らず、成人式とか卒業式もむろん無視して、出席もしませんでした。
集団行動が苦手だったため、学生運動にも運動部にも一定の距離を置き、単独行動、つまり一匹狼の生活を送りました。日常の生活は、着た切り雀。下駄、サンダル、運動靴、冬はゴム長靴でしたから、ビジネス用スーツや皮靴を履く、いわゆるリクルート・スタイルというマナーは全く知らなかったのです。一般常識や社会通念を著しく欠いており、(今は大分マシになったと自分では思っているのですが、家内からは否定されます)。世の中の権威とか秩序とか教育法規などというものには全く無頓着でした。
そんな私が、卒業と共に、埼玉県東部の利根川近くにあった小さな県立高校(今は廃校)に採用されました。以下はその学校での3つのエピソードです。作り話ではありません。その学校の開校20年記念誌にも書いた実話です。
1 県庁から学校視察の一行が来るという前夜、よくあることでしたが、近くの町で飲んで、帰りの終電に乗り遅れ、警備員さんの窓を叩いて泊めてもらいました。当時の学校は警備員さんがおり、宿直室もあったのです。あげくに、飲みなおそうとビールを保健室の冷凍庫に入れ、そのまま忘れてしまいました。次の日に視察団の目の前で開かれた冷凍庫のビール瓶がどうなっていたかは、ご想像のとおりです。
2 ある時、監査のために来校した県の監査役に授業中に呼び出されたことに憤慨して口論となりました。当時の校長・教頭先生は一言もおっしゃらなかったのですが、その事後処理に何度か県庁まで足を運ばねばならなかったということを、後になって他の人から知らされました。私は恐縮し、初めて「敬服」という言葉の意味と重さを全身で知りました。
3 体育館ができた1975年の夏休み、運動部合宿のために簡易なシャワー室を作ろうと思い立ち、保護者の大工さんと相談をして勝手に工事を始めました。近くのやんちゃな男子生徒たち数名と一緒に穴を掘ったり、セメントをこねたり、釘を打ったり、炎天下の辛い作業でしたが、とにかく電灯と水道をつないで、2坪ほどの小さなシャワー室ができた時はうれしかったのです。けれどその後、予算措置はもとより、建物そのものが建築確認を受けていない不法建築として問題になろうとは夢にも思わなかったことでした。この時も私には何のお咎めもなく、当時の校長・教頭先生が尻拭いしてくださったのでした。
このように小過・中過は日常茶飯事、大過もしばしばであった私が、ぼろを出しつつも何とか暫くの間教員を続けられたのは、「お前は野生児だからなあ」と面倒を見てくださった校長・教頭先生、先輩教師、仲の良かった同僚、そして何よりも寛容な生徒たちのおかげであったと思います。
その寛容な生徒たちを教えるにしても、あまりにも力不足であると自らの勉強不足を痛感。やり直そうと、潔く職を辞して、アルバイトでぎりぎりの生活をしながら大学に戻り、今度は本気で学問に取り組み始めました。「学問というのは本気で立ち向かうと、本気で返してくれる。こちらがたじたじとなる程に…」と初めてその面白さに気づかされたのでした。(続)
正直に白状するしかありません。
「えっ、そんな人が学長!」と驚かれるかもしれませんが、学長就任に一番驚いたのが当の本人でしたし、これまで「愚直」を信条としてきましたので、今更粉飾もなりますまい。私の学生時代は3つのフェーズに分けられますが、先ずはその第1フェーズ。恥ずかしながら、どうぞ反面教師になさってください。
1970年を挟んだいわゆる大学紛争の時代、入学式後間もなく大学は封鎖され、授業が再開されて以後もほぼ4年間、私はまともに大学へ行っていないのです。これ幸いとばかり別の学校(自動車学校)に行き、そこを超優秀な成績で卒業。アルバイトと、昼夜逆転の読書三昧の生活に明け暮れました。サルトルとか高橋和巳などと格闘していました。
今なら遠隔授業でしょうが、当時は学期末にレポート課題が下宿先に郵送され、適当に書いて提出すると、いつの間にか単位が出ているという次第。成績は「優」「良」「可」が各3分の1。一番多かったのは「放棄」でした。つまらない学問などこちらから願い下げだと虚勢を張っていたからですが、これは若さ故の無知からくる傲慢というものでしょう。シラバスに即した15回の授業など、当時あったのでしょうか。あったにしてもブラックバス、事実上の空文規定。全く気にもしませんでした。無責任といえば無責任、自由といえば自由な時代。大学にとっても大量留年はそもそも空間的・物理的に不可能ですから、苦渋の選択だったのでしょう。私は卒業に必要な最低限の単位しか取らず、成人式とか卒業式もむろん無視して、出席もしませんでした。
集団行動が苦手だったため、学生運動にも運動部にも一定の距離を置き、単独行動、つまり一匹狼の生活を送りました。日常の生活は、着た切り雀。下駄、サンダル、運動靴、冬はゴム長靴でしたから、ビジネス用スーツや皮靴を履く、いわゆるリクルート・スタイルというマナーは全く知らなかったのです。一般常識や社会通念を著しく欠いており、(今は大分マシになったと自分では思っているのですが、家内からは否定されます)。世の中の権威とか秩序とか教育法規などというものには全く無頓着でした。
そんな私が、卒業と共に、埼玉県東部の利根川近くにあった小さな県立高校(今は廃校)に採用されました。以下はその学校での3つのエピソードです。作り話ではありません。その学校の開校20年記念誌にも書いた実話です。
1 県庁から学校視察の一行が来るという前夜、よくあることでしたが、近くの町で飲んで、帰りの終電に乗り遅れ、警備員さんの窓を叩いて泊めてもらいました。当時の学校は警備員さんがおり、宿直室もあったのです。あげくに、飲みなおそうとビールを保健室の冷凍庫に入れ、そのまま忘れてしまいました。次の日に視察団の目の前で開かれた冷凍庫のビール瓶がどうなっていたかは、ご想像のとおりです。
2 ある時、監査のために来校した県の監査役に授業中に呼び出されたことに憤慨して口論となりました。当時の校長・教頭先生は一言もおっしゃらなかったのですが、その事後処理に何度か県庁まで足を運ばねばならなかったということを、後になって他の人から知らされました。私は恐縮し、初めて「敬服」という言葉の意味と重さを全身で知りました。
3 体育館ができた1975年の夏休み、運動部合宿のために簡易なシャワー室を作ろうと思い立ち、保護者の大工さんと相談をして勝手に工事を始めました。近くのやんちゃな男子生徒たち数名と一緒に穴を掘ったり、セメントをこねたり、釘を打ったり、炎天下の辛い作業でしたが、とにかく電灯と水道をつないで、2坪ほどの小さなシャワー室ができた時はうれしかったのです。けれどその後、予算措置はもとより、建物そのものが建築確認を受けていない不法建築として問題になろうとは夢にも思わなかったことでした。この時も私には何のお咎めもなく、当時の校長・教頭先生が尻拭いしてくださったのでした。
このように小過・中過は日常茶飯事、大過もしばしばであった私が、ぼろを出しつつも何とか暫くの間教員を続けられたのは、「お前は野生児だからなあ」と面倒を見てくださった校長・教頭先生、先輩教師、仲の良かった同僚、そして何よりも寛容な生徒たちのおかげであったと思います。
その寛容な生徒たちを教えるにしても、あまりにも力不足であると自らの勉強不足を痛感。やり直そうと、潔く職を辞して、アルバイトでぎりぎりの生活をしながら大学に戻り、今度は本気で学問に取り組み始めました。「学問というのは本気で立ち向かうと、本気で返してくれる。こちらがたじたじとなる程に…」と初めてその面白さに気づかされたのでした。(続)
参考文献 埼玉県立北川辺高校(1993)『開校20周年記念誌 流れ豊かに』、非売品