学長コラム

炭焼きという労働

2023.07.01

RAB青森放送テレビ「あの瞬(とき)この時」という番組で4年前に放映された、「1962山里の暮らし田子町」という映像があります。2分30秒足らずのモノクロ映像で、YouTubeでも公開されています(1)。

ナレーションです。「昭和37年、岩手県との県境、田子町中心街の映像です。毎月0のつく日は「市日」としてたくさんの店が出店し、にぎわいました」(映像:市日の風景)。「当時は田植え休みのほかに栗拾い休みというのもありました。子どもたちが栗を拾って販売し購入した竹製の傘です」(映像:相米小学校校舎全景と遊具に群がる子どもたち、そして学校名の入った番傘)。「灯油やガスが貴重品だった時代、木材を蒸し焼きにした炭を燃料に使っていました。炭すごと呼ばれる木炭を入れる容器に入れ、山道を運びます。雪が降る前に炭小屋に大量の炭を保管していました」(映像:男性2人がそれぞれ炭俵3俵を背負子に背負い、木炭倉庫に積み上げる風景)。「こちらは一般家庭の炊事の様子。炭を使い、窯で湯を沸かし、調理をしていました」(映像:かまどに薪をくべ調理する母娘の姿。かまどの脇には七輪コンロも見える)。「家庭に風呂の無かった家も多かった時代、学校に風呂が設置され、友達と入るのが楽しみでした」(映像:5~6人の男の子たちの風呂を使っている風景)。

わずか2分あまりの映像ですが、それこそ何度も食い入るように見入りました。1962(昭和37)年の田子町というのは、60年前、私が中学1年の時に暮らしていた町だったからです。町の中心街の市の風景、山々に囲まれた小さな小学校、かまどやストーブにくべる薪や杉の枯れ枝の燃える煙や匂いと共に懐かしい父や母の姿も蘇り、胸がいっぱいになりました。

さて、気になったのは炭3俵を担ぐ男たち。彼らの炭焼きはどれほどの労働だったのでしょうか。炭焼きはかつて全国各地で行われており、1965~1972年頃が生産量のピークで130~150万トン、石油時代の到来とともに以後急速に減少、2019年の生産量は全国で8,300トン、岩手県28.4%、高知県18.2%、和歌山県13.5%を占めます(2)。岩手は黒炭と呼ばれる「なら炭」、高知や和歌山は白炭と呼ばれる「備長炭」です。

地域・炭の種類によって窯の大きさや炭化の工程にもさまざまな違いがあるようですので、ここでは田子町に近い岩手県木炭協会が編集・作成した「岩手木炭story」(3)という動画、『石川県林業史』(4)を参考にしながら、炭焼き労働の一端を見てみたいと思います。炭焼きは、山中に入って、①伐採、②木割、③立て込み(窯入れ)、④前焚き、⑤着火(炭化)、⑥精煉(ねらし)、⑦消火、⑧出炭、⑨炭切・梱包、といった工程があり、一つの窯に約10トンの原木を入れ、出炭時には炭化して十分の一、約1トンの炭になるとのことです。

1トンの炭は50~60俵にあたり、仮に一人で1回3俵運んだとしても16~20往復はかかる計算。炭1俵は4~5貫目(16~20㎏)で、3俵では45~60㎏になります。運搬距離はおよそ3里(12km)(4)(368頁)が目安のようですから、山道でこの重さを担ぐとなれば、1日1往復が限度だったでしょう。映像で見た男たちの苦行は過酷な製炭労働の1コマであったのでしょう。

2023年現在、岩手木炭はネット上の末端価格、キロ当たり500円前後で販売されています。一窯分1トンで50万円。しかも、製炭者は原木代金として収入の40%近くを山主に納め、包装・雑費に10~20%を使用、残りの40~50%が焼き賃及び炭運搬費として、生産者の労働収入になったとされています(4)(368頁)。一月に及ぶ重労働によって得られる収入が実質20~25万円というのでは、とても割に合わず、産業として成り立たないのは言うまでもありません。

石川県でもかつて炭焼きは林野生産物の中では重要な位置を占めていたとされます。金沢の茶の湯に用いる高級な「能登炭」、輪島塗などの漆器の研磨に用いる「駿河炭」なども生産されていたのですが、「全体としては県内産の炭質は低く」、「目方が足りない、煙る、撰別が悪い、俵装が悪い等、欠点だらけで…本県の炭よりも良い他府県の炭がドシドシ貨車で入荷」されるという状況だったようです。1997年には総生産量が614トン、最盛期の2%弱となってしまいました(4)(596-597頁)。

「どちらかといえば製炭業はキツイ仕事であり、他のもっと有利な兼業、業種があればそのほうを選ぶのがふつうであった」(4)(185頁)とされます。石川県は恵まれた農業、漁業、林業のほか、繊維・織物、九谷焼などの陶磁器、漆器産業、温泉や観光業など、有利な兼業、業種が豊富で、あえて炭焼きを業とする必要はなかった豊かな土地柄であったということができるでしょう。

こうした中で、現在珠洲市「のとははそ」(大野製炭工場)は県内唯一の専業製炭工場を営み、自社で植林も行っておられるとのことです(5)(6)。柞(ははそ)は、楢、クヌギ、どんぐりなどブナ科樹木の総称ですが、樹齢25~30年で伐採すると、その切株から多数の新芽が出て成長を始め、再び樹林を形成するという持続可能で神秘的な山林材です。自身が山主となって30年分の原木を確保し、機械を用いて伐採や木割を行い、里近くまで運搬して、少し大きめの製炭工場を稼働できれば品質も向上・安定するでしょうし、高級品として販路が拡大できれば、さらに経営も安定し、産業化できるかもしれません。SDGsの観点からも、「のとははそ」に息の長い支援と声援を送りたいと思わずにはいられません。

地域に根ざした経世済民を学ぶわれわれ、卒業研究のテーマにスケールの大きな「炭焼き」などいかがでしょう。懐かしい映像から考えたことでした。

筆者撮影 津幡町船橋のハス

注及び引用参考文献
(1)RAB青森放送「1962山里の暮らし田子町」2019【2023.6.25閲覧】
(2)木炭の生産量の都道府県ランキング(令和元年)【2023.6.28閲覧】、また岸本定吉「木炭の生産と利用の現況と將来」燃料協会誌41-9、1962
(3)岩手県木炭協会「岩手木炭story」2022【2023.6.26閲覧】
(4)石川県山林協会『石川県林業史』1997
(5)【奥能登に生きる】炭やき職人 大野長一郎さん#1【2023.6.28閲覧】
(6)【奥能登に生きる】炭やき職人 大野長一郎さん#2【2023.6.28閲覧】