学長コラム

ノーブレス・オブリージュ

2023.08.01

サイード『オリエンタリズム』(1978)によれば、1815年、イギリス、フランス、スペイン、オランダなどヨーロッパ諸国の支配する面積は地表面積の35%に及んでいたが、100年後の1915年(第一次世界大戦中)には何と85%にまで拡大しました。七つの海を支配したイギリスはその最たる国です。

ですが、武力に頼るだけの植民地支配は長続きしません。1840年の清国との「アヘン戦争」、1857年の「インド大反乱」(セポイの乱)では、イギリスは一時的には勝利したものの、その後の反英抵抗運動・独立運動に結び付きました。近代日本が欧米諸国による植民地化を免れた背景にはこうしたアジア諸国の頑強な抵抗の歴史があったことを見逃すべきではないでしょう。

近年では1954年頃-1975年まで続いたベトナム戦争におけるアメリカの敗北、1979-1989年のソ連のアフガニスタン侵攻・撤退とその後のソ連崩壊、さらにその後のアメリカを主とする有志連合諸国のアフガニスタン戦争を見るにつけ、武力による支配には膨大な軍事コストを要して、しかも結局は撤退(敗退)に追い込まれることを知ることができます。

さて世界中に広がる帝国主義的植民地の獲得と経営に当たる人材教育・育成をイギリスはどのように行ったのでしょうか。軍人、官吏、宣教師、教員、技術者、実業家、銀行家、商人などさまざまな分野がありますが、いずれも気候・風土、言語、習俗、宗教、文化価値観など全く異なる海外各地において、スペシャリストであると同時にゼネラリストでなければなりません。最終手段としての武の行使を背後に持つとしても、平時は如何にして円滑・平和裏に植民地経営を成し遂げるかが重視されます。それには植民地経営の指揮にあたる人物が、何よりも現地の人々に一目置かれ、尊敬される人物でなければなりません。

19~20世紀、イギリスのパブリックスクールや大学はそうした指導者層の子弟を教育する役割を持つ学校でした。彼らはノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)(高貴なる者の務め)として、積極的な海外人材となる道を選択します。イギリス人デハビランド(1872-1968)は21歳、ケンブリッジ大学卒業とともに、日本に向かいました。26歳、金沢の第四高等学校に赴任。英語を教える傍ら、フットボール部を立ち上げます。その後東京高等師範学校に転じてサッカーを本格指導、これが日本学生サッカーに大きな影響を及ぼしたものですから、あたかも東京が日本学生サッカー発祥の地となっているのですが、金沢がそのキックオフの地であると小さな論文にしたことがあります(1)。デハビランド先生一つを取り上げても、その意欲や行動力には瞠目させられます。どうしたらこのような若者を育てられるのでしょうか。

パブリックスクールでは、そうした若者を鍛えるためにスポーツを教育に取り込みました。そこで目指されたのは、指導的な立場に立つ者としての振舞い方、責任の取り方をノーブレス・オブリージュとして自覚すること。スポーツは体力をつけることが直接目的でもなく、勝利・勝敗のためでもなく、結果より過程を重視すること(「ノーサイド」)、チームが勝つことのためにそれぞれ各自が何をできるかを考え、行動する。つまり集団の一員としての個人のあり方を追求する徹底的な人格教育でした。目指されたのは、①指導力、②勇気、③忍耐、④決断、⑤明朗、⑥行動力、⑦フェアー、⑧責任感、⑨品性を持つ若者であり、「人望」をもった人間の育成です。(2)

船による海外帝国主義の時代、上に立つリーダー・キャプテンが、現場から離れず、逃げず、最終的な責任を取る。このようなキャプテンシイを持った人間を育てるためのスポーツには、現場から離れることを是としないオフサイドや、スローフォーワード(その最たるものはバスケットボールのゴール下へのロング・パスでしょうか)。あるいは選手交代や、監督という名の外部コーチシステムが存在しませんでしたし、天候によって競技が左右されるという発想がなかったのはよく理解できることです。原初的なスポーツ形態にはこのようにそれを生み出した国や地域の歴史と文化が色濃く反映されます。

さて、一般に、軍隊組織や企業では経営トップが決断を下したら、部下はそれに従います。大学や小・中・高等学校などの教育機関でも最近はガバナンスの強化ということが言われて、トップ・ダウンのマネージメントが強化されています。私も学長としての立場と役割から、教学運営の責任者として必要な決断や判断を下し、それについて責任を負います。

けれども、本学教員・職員・学生の皆さんの多様にして活発な教育・研究活動の一端を見るにつけ、自分の専門とする分野の知や活動領域がいかに狭いかということに気づかされます。ある特定の分野についてだけ、他の人より少しは知っているかもしれませんが、それ以外については呆れるほど知らない。だから謙虚に教え合い、意見も言い合う。これができるのが「同僚性」(collegiality)です。もともとcollegeは修道院などの僧院を意味します。神の前には、職業、職階、年齢などの区別は意味を持たず、皆一律に対等な立場にあり、自由な議論が可能です。ここから大学collegeが生まれたのもなるほどと思わされます。私は「同僚性」(collegiality)を大事にしながら、自らのノーブレス・オブリージュを誠実に果たそうと思います。

なお、「学長コラム」次回は10月1日予定です。良い夏休みを!

筆者撮影 モニュメント「協調」越しの夏の朝陽(杜の里)

参考文献
(1)拙論「日本学生サッカー前史:四高外国人教師デハビランドとヴォールファルトのフットボール」体育学研究58巻1号331頁、2013
(2)パブリックスクールのスポーツ教育については代表的な次の3冊をお薦めします。
・阿部生雄『近代スポーツマンシップの誕生と成長』筑波大学出版会、2009
・鈴木秀人『変貌する英国パブリック・スクール:スポーツ教育から見た現在』世界思想社、2002
・池田潔『自由と規律: イギリスの学校生活』岩波新書、1949