学長コラム

「肋木」が語る日本のスウェーデン・石川

2023.11.01

皆さん、「ろくぼく」って知っていますか。時々、体育館の片隅に見かける、高さ180~240㎝、横幅が80~100㎝の器具が数欄(らん)組み合わせられている木製の梯子みたいな謎の「あれ」です。名前すら忘れられ、使い方もよく分からず、最も利用頻度が高いのは運動部員のタオル掛けかもしれません。英語ではwall barsと表記されますが、肋骨(ribs)状の器具なので、「肋木」とされます。

明治末から大正、昭和戦前期まで、日本の学校体育の中心教材の一つであったスウェーデン体操の補助具の一つでした。スウェーデン(瑞典)体操とは、19世紀スウェーデンの生理学者リング(Ling,P.H. 1776-1839)が考案した体操で、1902年頃に川瀬元九郎、井口あぐり等によって日本に紹介されました。

スウェーデン体操はドイツ体操から派生したものです。ドイツ体操はヤーン(1778-1852)が、1811年、ベルリン郊外のハーゼンハイデに体操場をつくり、ドイツ国民の心身を鍛える愛国的体操として、今の体操競技の原形となる鞍馬や平均台、平行棒などの器械運動を行なわせました。ドイツ体操の鉄棒(Reck)や木馬(Pferd)等の器械には大きさや高さなど一定の基準があり、人々はそれに合わせなければなりません。それに対して、鉄棒から工夫されたスウェーデン体操の「肋木」は、鉄棒のような回り技はできませんが、自分の身長や体格、運動能力に合わせて、誰でも懸垂や支持といったさまざまな運動が可能になります。胸郭を鍛える運動を目的とするならば、「肋木」で十分ですね。ドイツ体操の木馬を改良したスウェーデン体操器具の跳び箱も、身長に合わせて誰にでも高さが調節可能です。これならば女児にも実施可能です。

これを明治末の日本の学校体育状況と照らし合わせると、スウェーデン体操の合理性、科学性、教育性がよく理解されます。日本では、当時の学校体育の主要教材が、普通体操(軽体操)と兵式体操(隊列運動)。普通体操は病気にならない程度にその場で体を動かす初歩的で形骸化した体操、逆に兵式体操は軍隊式で時に過酷、しかも女子は想定されていないという教材的な限界が認識されていた時期だったのです。つまり、当時の日本の学校体育教材が直面していた教材価値の限界を打ち破る新教材としてスウェーデン体操に期待が集まり、ことに、①医療的、②教育的、③軍隊的、④芸術的、であるという、4つの特徴が高く評価されました。

医療的ということに簡単に触れておきます。この当時日本では肺結核が「亡国病」と呼ばれ、人々を苦しめ、最も恐れられた病気でした。なかでも石川、福井、滋賀、富山、青森県の日本海側積雪地帯の結核死亡率は高く、とりわけ石川県は1913年から1922年までの12年間、ワースト1が5回、ほとんどワースト3に入る全国有数の結核県だったのです。雨雪が多く、日照不足、冬季は屋内に蟄居して飲酒にふけり、体も動かさない生活習慣が影響していると考えられました。

1924年、陸軍特別大演習が金沢市を中心とする石川・富山県下で実施されることとなり、病弱な大正天皇に代わって、摂政の座にあった皇太子(後の昭和天皇)が大元帥名代として金沢を訪れた際、県知事、市長に対して「石川県の健康問題」、つまり結核についての下問がなされました。県市としても、懸命な医学的な対策を講じてきたのですが、思うように死亡率が下がらないという状況に直面していた所でした。県知事、市長ともこの下問に恐懼(きょうく)し、「この不幸から県民を救う」決意を表明せざるを得ませんでした。

県知事・市長とも政治生命を賭して、医学対策のみならず、幅広い健康対策を進めることに大胆にかじを切ります。そのモデルとなったのがスウェーデンでした。スウェーデンは北緯50度、石川県以上に気候条件も厳しく、冬は石川県同様家に籠り、アルコール中毒も多かったのですが、国家が結核療養所の設置普及は言うに及ばず、小児から青年に至るまでスウェーデン体操や各種の屋外運動、とりわけスキーを奨励、1904年には全国各地にあった運動クラブ団体を統一して半官半民の中央運動協会を組織しました。同時に「ゴッデンブルグ」式節酒法を奨励、1909年には一般死亡率が30年前に比べて半減、結核死亡率も運動奨励施設の普及に伴って下がったという事実に着目しました。

こうして、1925年、「行啓記念石川県体育協会」が発足して、県民の体育・スポーツ施策が本格的に開始され、金沢市内の全小学校にはすべて屋内体操場が設けられ、グラウンドには特殊な舗装を施して雨上がりにはすぐ運動できる屋外運動場が作られ、スウェーデン体操施設や器具が配備され、スウェーデン体操やスキーが活発に行われるようになりました。1934年には全国に向けて「金沢市児童体育研究発表会」が行われた程だったのです。

この石川県における結核対策が功を奏し、結核死亡率が全国平均を下回り、結核県の汚名を返上できたのは1941年。皇太子の下問に端を発する「この不幸から県民を救う」決意は20年余りの歳月をかけてようやくにして達成され、人々の願いに応えることができたのでした。まさに石川県は日本のスウェーデンだったのです。そしてスウェーデン体操はその強力な武器だったのです。

戦後、体操教材はスポーツ教材に変わり、体育館には歴史的役割を終えた「肋木」が遺産もしくはアクセサリーとして残されました。その名前や由来・用途もいつか忘れられてしまっているようです。

本学でスポーツ科学を学んでいる学生の皆さん、あるいは運動部員の皆さん、どこかでこのかわいそうな「肋木」を見かけたら、「これはスウェーデン体操の器具ですね」と、その由来と適切な使い方を伝えてあげてください。

筆者複写撮影「女児肋木運動」(十一屋五女)

注及び引用参考文献
拙稿「大正期の教育課題」『金沢市史』通史編3・近代、平成18年424‐438頁
写真「金沢市児童体育研究発表大会記念帳」(1934)より「女児肋木運動」(十一屋五女)」(旧芳斉小学校蔵)