学長コラム

2029年には鎮魂・復興「能登半島一周駅伝」を!

2024.05.01

2024年1月1日、能登半島を震度7の大地震が襲いました。マグニチュードは7・6と推定され、建物の損壊が多発し、火災や津波、隆起や土砂崩れが過疎地を直撃し、犠牲者は240人以上に及びます。
あれから5か月目を迎えました。懸命の復興・復旧作業が進められているとは言うものの、4月下旬に視察した珠洲市などではいまだ断水、倒壊家屋も手付かずのままで、人影も少ないように見受けられました。復興にはまだまだ時間がかかりそうです。

石川県では「石川県創造的復興プラン(仮称)」を公表して、短期(2年)、中期(5年)、長期(9年)に分け、①教訓を踏まえた災害に強い地域づくり、②能登の特色ある生業(なりわい)の再建、③暮らしとコミュニティの再建、④安全・安心な地域づくり、⑤創造的復興リーディングプロジェクトの創出、という5つを柱に、復興に取り組むとしています。そして、この⑤「創造的復興リーディングプロジェクトの創出」には、「能登地域復興の象徴となる文化芸術イベント」、「スポーツイベントの開催」が例示されています。

これを眼にして、ぜひ実現させたいと思ったのが1968年から1977年にかけて、つまり今から約50年前、10年間にわたって開催された「能登駅伝」、正式には「全日本大学選抜能登半島一周駅伝競走選手権大会」の復活です。現在、(男子)大学生の三大駅伝は、東京箱根間往復駅伝競走(以下「箱根駅伝」)、「全日本大学駅伝対抗選手権」(以下「伊勢駅伝」)、「出雲全日本大学選抜駅伝競走」(以下「出雲駅伝」)ですが、しかし1970年代までの三大駅伝といえば、「箱根駅伝」、「伊勢駅伝」、それに「能登駅伝」を指しました。

1968年に富山県高岡市(読売新聞北陸支社前)をスタートし、七尾市をゴールとする大会として始まりましたが、1970年の第3回大会からは、高岡市をスタートとし、能登半島を一周して、金沢市(当時県庁前・現在しいのき迎賓館前)にゴールするという当時最大・最長の大規模な駅伝となり、全国からトップランナーが集まりました。このコースは富山湾、内浦、外浦、金沢卯辰山を走り、風光明媚な景観と起伏の変化に富み、3日間で26区間341.6kmを走破する日本一過酷なレースでした。(コース図参照)

 そもそもの開催は、1968年に能登半島が国定公園に指定されたことに端を発します。「日本最後の秘境・陸の孤島」として能登半島が一躍注目され、全国から観光客が押し寄せ始めます。この国定公園指定記念と能登半島ブームを加速しようと企画されたのが「能登駅伝」でした。当初七尾市をはじめとする関係市町村の観光協会が1回の記念行事として企画したようですが、大会後、主催者の読売新聞社や駅伝関係者から「コースといい、規模といい、日本最大の学生駅伝になる」と高く評価され、継続大会となりました。

  最も参加チーム数が多かった第10回大会(1977年)は、12チームが参加し、順位は、1位日本体育大学、2位東京農業大学、3位大東文化大学、4位京都産業大学、5位中京大学、6位東海大学、7位駒沢大学、8位大阪体育大学、9位東北学連、10位北信越学連、11位大阪商業大学、12位北海道学連、でした。このように「能登駅伝」は文字通り、日本全国の大学生たちが一堂に会する大学駅伝だったのです(箱根駅伝は基本的に関東学連のローカル大会であり、全国駅伝ではありません)。しかしながら、1973年10月、第4次中東戦争の勃発を契機に、日本は石油ショックに見舞われます。物価高騰と最大スポンサーだった読売新聞の経費削減に伴って、大会運営は次第に困難になっていきます。加えて、決定的な打撃を与えたのが1977年の第10回大会で発生した伴走車による交通事故でした。以後開催されることがないまま現在に至っています。「幻の能登駅伝」といわれるゆえんです。

2024年5月現在、能登半島地震の被災によって、道路が寸断され、能登半島を一周できる道路は消滅しています。ですが、数年内には再開されることでしょう。また沿道の被災家屋等も少しずつではあるかもしれませんが、再建されるであろうと思います。 「石川県創造的復興プラン(仮称)」の中期が終了する5年後、つまり2029年頃、全国の若者たちが沿道の応援と建設の槌音を聞きながら、その力強い足音を響かせ、一歩一歩能登の大地を踏みしめ、鎮魂と復興の想いを刻んでくれれば、能登半島地震の象徴的復興につながると思います。「2029年には鎮魂・復興『能登半島一周駅伝』を!」いかがでしょうか。

図「能登駅伝」(第10回大会)コース図(1977)(筆者)

参考文献
大久保英哲(編著)『箱根駅伝を超えようとした幻の「能登駅伝」』、能登印刷出版部:金沢、2019年