学長コラム

「50年前の一喝」

2026.02.01

修業時代
 私は「地方からの日本体育史」をライフワークとしていますが、筑波大学大学院では成田十次郎先生の下で、近現代ドイツ体育史を学びました。もう50年も前のことです。当時は東・西ドイツですし、文化連邦主義と言われた州毎に異なる文化・教育制度でしたから、西ドイツという場合でさえ、各州を総合する作業を踏まえなければならないという基本的研究視点を教わりました。ドイツ語も初歩から学ばなければなりませんでしたし、親からの援助はありませんでしたから、夜間高校で講師のバイトをしながら学費と生活費を賄いました。

研究者の尊厳
 このようにして、研究者としての厳しいトレーニングを受けたわけですが、一番鮮明に記憶に残っているのは、与えられた課題が思うようにできず、「すみません。時間がなくてこれしかできませんでした」と言い訳した時でした。「精一杯やって、これしかできませんでしたと言いなさい」と一喝されました。これは当時の若者にとって一般的に見えた体制批判、社会批判、文明批判などを前景に漂わせて、問題を拡散させてばかりいた、私の基本的な研究姿勢への痛烈な喝でした。後にマックス・ウェーバー『職業としての学問』を読み、「現実の代わりに理想」を、「事実の代わりに世界観」を、「認識の代わりに体験」を、「専門家の代わりに全人」を、「教師の代わりに指導者」を求め、先走るのではなく、いったん価値自由になって、あるべき姿(当為)と事実(存在)を峻別し、混同すべきでないことを鋭く説いたものだと知らされました。

一生をかけるテーマ
 修士課程後は博士課程へ進もうとしましたが、経済的に見通しが立たなかったため、入学辞退せざるを得ませんでした。しかし、その時こう思いました。自分には一生かけてやる研究テーマができた。自分や家族が暮らしていくために、仕事は何をやってもいい。その仕事が一段落、休みや暇ができた時には、いつだってその研究テーマに戻ることができる。もう迷わない。よし一介の貧乏研究者で生きていこう。自分はそれ以上のものではないし、それ以下でもない。もういい格好をするのは止めよう。そう決心して、夜間高校で働いていた私に、ある2月の夕方5時過ぎ、成田先生から電話が入りました。「盛岡に小さな大学があって、教職を担当できる体育の先生を探している。行くかどうか、奥さんと相談して夜7時までに返事をくれたまえ」。 …これが私の大学教員のスタートになります。

イーハトーブ 盛岡
 1985年、赴任した盛岡は北に岩手山がそびえ、東に早池峰山を望み、市内を北上川と中津川が静かに流れる美しい町でした。大学も小ぢんまりした文学部の単科大学。ドイツ語の先生にお聞きしながら、自分の好きな本をのんびりと読める、私にとってはまさに理想郷(イーハトーブ)でした。ただ一つ、ドイツの研究情報の入手が難しかったことを除いては。
 そんなこともあって、岩手県庁文書資料庫に出向いているうちに、明治14年、「体操伝習所」(現筑波大学体育専門学群の前身)第1回卒業生原収造が岩手県中学校・師範学校教員として着任し、体操科カリキュラムや規則を制定、体操場を作り、体操指導や講習会開催など活発な体育活動を展開していたことを当時の県庁文書という一次史料レベルで明らかにすることができました。「榭中(屋根付きの意)体操所必要に付、附属生徒食堂模様換伺儀」という公文書とともに折り畳んで綴じられたままの改築設計図面を自分の手で開封した時の緊張感と感激は生涯忘れることはないでしょう、これが私の日本体育史研究の始まりになります。

 成田先生は2022年8月、89歳で亡くなられました。今『成田十次郎先生追悼集』を手に、古びた『職業としての学問』を開き、50年前の一喝を、有り難くも切なく思い返しているところです。

筆写撮影「雪の晴れ間」

引用・参考文献
成田十次郎先生追悼集刊行会(代表大熊廣明)、『成田十次郎先生追悼集』不昧堂、2024、非売品
拙論「体操伝習所卒業生原収造の岩手県における体育活動について」、体育学研究32(1)1987
マックス・ウェーバー(尾高邦雄訳)、『職業としての学問』岩波文庫、1936(第41刷1977)