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【金沢星稜大学市民講座】(第103回)能登半島地震の創造的復興:「能登駅伝」の復活開催を目指して-当時のコースを踏査しましょう-を開催しました

2024.11.13

10/5(土)

日本学生三大駅伝といえば、たいていの方は箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝)、伊勢駅伝(全日本大学駅伝)、出雲駅伝(全日本大学選抜駅伝)を思い浮かべると思います。しかし、1970年代(昭和40年代)の三大駅伝は、前出の箱根駅伝、伊勢駅伝ともう一つが「能登駅伝」であったと知る方は、少数派ではないでしょうか。
いま、能登はたいへんな災害(地震、豪雨)に遭っていますが、これを乗り越えて、駅伝をイベントとして復興のひとつの足掛かりにするという発想のもとに、まずは、前回(第2回市民講座9月28日)に、座学として大久保学長が講師となって「能登駅伝」の詳しい内容の講義がありました。その講義を受けて、なんと「能登駅伝」に北信越チームとして4度走った親谷均二氏に解説してもらうこととなり、今回は日帰りで「能登駅伝」(当時のコース)を踏破することとなりました。

当日は「能登駅伝」のスタート地点である読売新聞北陸支社を出発してから、夕方までほぼノンストップのスケジュールで当時のコースを踏査しました。
延々と海沿いを走るルートでは、天気によって海からの強風が吹き荒れたのではないかと、当時のランナーの過酷さを想像すると自然と背筋がピンとなりました。また、海沿いのルートに加えて、狭く入り組んだアップダウンの激しいコースがところどころにあり、走破におけるたいへんさが偲ばれました。

親谷氏の解説では、優勝の常連校であった日本体育大学は、当時で陸上部員が約800名。そのうち長距離専門は約200名の大所帯であり、他大学は最初の1区に力のある選手を配置する中で、日本体育大学は一番距離の長い2区に強い選手を配置する余裕があったとの話を聞くことができました。
また、全26区間中にある中継地点についてもご説明いただきました。最後のゴール地点の旧石川県庁(しいのき迎賓館)では、何ともいわれない達成感がありました。当時の関係者の方々も私たちの想像を超えた達成感を覚えたのではないだろうか、との思いを馳せた1日となりました。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。